サムライチャンプルーは、2004年の5月、関西の深夜枠で公開されたアニメだ。テレビ局の都合で、地上波では17話までしか公開されなかったが、制作は26話までされており、現在はブルーレイBOXが発売されている。
アニメーション制作及び、原作はマングローブ。監督は、「カウボーイビバップ」で知られる渡辺信一郎。キャラクターデザインは、「明日のナージャ」や「さらい屋五葉」の中澤一登だ。
サムライチャンプルーは、ひとことで言うと…極めておかしい。要するにめちゃくちゃなのだ。カッコつけて言葉を用意するよりも、もっと簡単にまとめてくれている箇所をWikipediaから少し引こう。
江戸時代の日本を舞台としているものの、チャンプルーの名前通り、随所に現代文化がミックスされた独特の世界観が特徴。登場人物はカタカナ語(「バイト」、「モデル」など)や若者言葉(「マジ」、「たりぃ」など)を話し、金髪にピアスの若者やヒューマンビートボクサーが登場するなど、時代考証を無視した時代劇が展開されている。渡辺監督によれば、これは作品に面白味と新鮮味を出すための演出であり、第一回の冒頭において視聴者に対し「ガタガタ言うな。黙って見やがれ」とのメッセージが送られている。
(Wikipedia 「サムライチャンプルー」世界観の項目より)
町人がラップで町の事情を教えてくれたり、モヒカンのゴロつきが現れたり…と。いや、本編を見るまでもなく、これが単なる「時代劇アニメ」ではないと感じさせるのはそのオープニングだ。なんといってもおしゃれなのだ。かっけーと言ってもいい。
要するに「非モテヲタ乙…」とでも言いたくなる程の(あるいは「オタク涙目」とでも)、スタイリッシュなものなのだ。
- キャラクター/ストーリー
主要登場人物は3人いる、というか3人しかいないと言ってもいい程だ。凄腕の剣士二人と、無邪気な少女が一人。一人の剣士「ジン(仁)」は、道場上がりで師を殺してしまった、そして何故か伊達眼鏡。もう一人の剣士「ムゲン(無幻)」は、踊るように戦う琉球出身の不良剣士だ、常に強きを求めている。二人は出会った瞬間から、それこそまさに犬猿の仲と言った様子で、共闘したかと思えば喧嘩をし、黙っているかと思えば二人で斬り合う。この二人を繋げるのが、良く言えば無邪気、有り体に言えばアホの子、「フウ(風)」だ。彼女は、二人の命を救い、その中で約束をさせる。「向日葵の匂いのするお侍さんを探して欲しい」と。「見付けるまでは、喧嘩をしないこと」、それがフウと彼らの約束だった。
こう言えば、「ほほう、面白そうではあるなぁ。しかし、ありがちではありゃせんかい」とでも言いたくなるだろう。そう、その通り。その感は正直否めないだろう。
ジンは静かな優男で、不器用である以外に、事実上、設定はない。同じように、ムゲンも短気かつスケベで、案外優しい所があるけれど、基本的に自己中、それ以外に設定はない。フウも、異常な食いしん坊というキャラ付けがされているものの、事あるごとに「仲良くしてよー」「タスケテー」「キャー」「お腹すいた」「助けてあげようよ」「お金がない」「向日葵の匂いのするお侍さんに会いに行くの」、これらのセリフを臨機応変に使い分けているだけだ、と言えなくもない。
毎回のプロットも、水戸黄門的な雰囲気が漂わなくはない。パターン化を免れない。マッチポンプとして何かしでかすか、巻き込まれてフウ攫われるか、三人の仲が悪くなって離れかけるか…。
- チャンプルー×チャンプルー
しかし一方で、このアニメは多くの人を虜にしたのだ。かくいう私もそうだ(ブルーレイBOXを持っている)。アニメが、どんどんとオタク向けになっていき、その中で異常なまでに「萌」が全面に出されてゆく(今もまだその傾向は強まっているのではないか)。その中で、このアニメは極めて異質だ。
ごった混ぜににして、このアニメが語ろうとしたことは何か。萌化するアニメ市場で、このようなアニメを製作することの反響は大きいことが、企画段階から予測されたことだろう。しかも、時代劇とヒップホップカルチャーの融合だ。異色尽くしのアニメであることは一目瞭然。(実際、本編が始める前に、1話では「ガタガタ言うな。黙ってみやがれ。」である。)
フラクタルパニックだなんて語られているが、ヤマカンがフラクタルでやろうとしたことの1つは、インタビューやTwitterなどから考えるに、奇形なまでに進んだ萌依存の拒否ではないか。その成否は置くとしても、その試みは重要なもののように思える。この一点では、サムライチャンプルーもフラクタルと同じ景色を観ている。
サムライチャンプルーでは、混ぜられたもののカッコよさに騙されている気がしないでもない。雰囲気が既にスタイリッシュで、既に面白いのだ。個性は、テンプレ化されたものを、データベースから引き集めたもので、キャラクターも特別に目新しいわけでも、目立ったわけでもない。にも関わらず、面白いのだ。
- チャンプルー×マトリックス
サムライチャンプルーを観た時に、最初に思い出したのが、東浩紀の「『マトリックス』と人間不在の荒野」という短い文章だ。河出文庫の『郵便的不安たちβ』に収録されているので、興味のある方は是非読んでほしい。
キャラクターが、執拗に同じセリフを繰り返すのは、かつては強い個性の反映であり主張だったはずだ。しかしこのアニメでは、例えば「向日葵の匂いのするお侍さん~」というフレーズは、うんざりするほど多く出てくる。執拗に個性を主張し、呪文のように同じ言葉を繰り返すのは、没個性を露呈しているように見えるし、呪文のようなセリフは、最初期RPGの「あまりに頑な」なNPCを想起させすらする。
先に挙げた東浩紀の文章で持ち上げられているのは、「人間不在の世界」という考えだ。その中に新しい表現があるのではないか、新しい感情のあり方があるのではないか、と。
ネオもトリニティも、物語をすすめるための一要素でしかなく、それを超えた深みはまったく演出されない。(中略)この場面ならヒロインはこのように悲しむだろうという「お約束」どおりの悲しみ方しかない。その感情の文法は、ほとんどロールプレイングゲームを思わせる。(中略)心に響く感動を与えるためには、もはや「人間」だけに頼る必要などないのだ(中略)ここには、かつての文学や映画とはまったく異なった「人間」の捉え方があり、作品と消費者の関係がある。
(前掲書、p264~265)
サムライチャンプルーにも、マトリックスにも、確かにドラマがあり、そこには強いメッセージがしっかり込められている。これは東も指摘する通りだ。けれど、それこそ、水戸黄門が伝えるような、あるいは便所のカレンダーが語るような、ありふれた(だからこそ決定的な価値があるのだが)メッセージでもある。
サムライチャンプルーが描こうとしたもの、描こうとしたこと、その挑戦。それは非常に有意義なものに違いない。東浩紀の先の文章は1999/2000に書かれたものだ。一方、サムライチャンプルーは2006年だ。
あのエッセイ的な論文の中で、東が可能性として示唆したに過ぎないこと、それは、確かに現実の表現として一定のシーンを築いている、あるいは築きつつあるのかもしれない。
ここで触れなかったが、萌えアニメもそうだろう。テンプレ的なキャラクターで、ありふれたメッセージであったとしても、ある程度新鮮な世界観や演出の下、描かれたとしたら、そこに人は感動しうる。確かに、「人間」の捉え方は変わっており(あるいは変わりつつあり)、その地平は、もうすぐそこに見えているのかもしれない。