強風の中で粘れ!冬の深夜の耐寒プロポーズ
源氏が老女たちを振り切って朝顔の部屋の前に来たのは、月が顔を出す頃でした。うっすらと雪化粧した庭は白く輝き、美しい夜です。朝顔の部屋はすでに格子戸が折りていますが、一間、二間は開けてあります。全部閉めるといかにも「来るな」と言わんばかりなので……という配慮です。
今夜の源氏はとても真剣に「せめて一言、あなたの口から嫌いだと仰ってくれませんか。それなら私も諦めます」。そう、朝顔はまだ源氏と直接口を利いていない。常に女房が同時通訳のようにして会話するのが高貴なお姫様ですが、それにしてもなんてまどろっこしんだろう。
女房たちはお気の毒だから是非お言葉を、と助太刀しますが、朝顔は「こんな歳になって直接会話するなんて恥ずかしい」と突っぱねます。それでも女房越しの会話はやんわりと続けるので、源氏も粘って夜更けまで居座ります。
風の吹きすさぶ冬の深夜に粘る光源氏、32歳。冬の寝殿造りは特に寒そうですが、これはキツイ。「もう若くない」と源氏も何度か言っていますが、こういう時にも体力の衰えを実感するのかもしれませんね。
風は冷たいし、いい返事はもらえないし、源氏の心は折れまくり。でも朝顔は「私の気持ちは変わりません」の一点張りです。これ以上は埒が明かないと、女房たちにあれこれ言いつつ退散しました。
「結婚のリアルなど不要」朝顔が求める理想の関係とは
「うちのお姫様はどうして」と女房たちが源氏に同情を寄せる中、朝顔は心のなかで(彼のことは好きだわ。でも私の本当の気持は知られたくない。結婚したらありふれた関係になってしまうだけ。これからも旧交を温め合う友人として付き合いたい)。
高貴で聡明、年上の憧れの女性と、源氏好みの要素を多く持つ朝顔ですが、彼女が藤壺や六条と違うのは「源氏を受け入れない」の一点につきます。源氏を受け入れたらどうなるか。朝顔はかつて葵上と六条の車争いをリアルタイムで見て衝撃を受け、その後もよく知っています。結婚したら最後、その先に待つのはお互いへの失望と倦怠、他の妻たちの嫉妬と軋轢が渦巻く、愛欲の泥沼です。
彼女は源氏と結ばれないことこそが、自らを唯一無二の存在にしうるとわかっていたのでしょう。親しくやり取りはするけれど、肉体的に結ばれない。友達以上恋人未満のプラトニックな関係を保てれば、朝顔は他の女性たちと差別化されるからです。
生身の源氏は確かにいるのに、手紙や人づての会話といった間接的なコミュニケーションにこだわり、直接話そうとも、抱き合おうともしない。朝顔の求めるところは今風に言うと”2.5次元的”とでも言えばいいのか、リアルな質感と夢を壊さない理想のいいとこ取りのようにも感じます。
そんな彼女にとって、実際の人生の伴侶としての源氏は不要。時折手紙や訪問で、ちょっと素敵な思いをさせてくれたらそれで十分だし、自分もそのように振る舞いたい。「リアルに傷つくのは嫌」とばかりに距離を置く朝顔は、恋愛をはじめ人間関係に不器用な現代人にも大いに共感できるところだと思います。
周囲に理解者なし「どうして結婚しないの?」に閉口
源氏は朝顔の心を掴みかね、世間のそしりを受けつつも引き下がれません。朝顔は親しげな手紙や贈り物を受け取るのもどうかと思うのですが、女房たちと叔母の五の宮はこの関係にとても喜んでいました。
五の宮は、朝顔の顔を見ると「結婚したらいいじゃない。あんなに立派で素晴らしい殿方がこんなに熱心にプロポーズしてくれるんだから、やっぱり2人は前世から結ばれる運命なのよ。あなたの父上もずっと後悔していたわ。あの頃は三の宮(大宮)と葵の上に遠慮があったから縁談をまとめられなかったけど、今はその心配もないんだし」。出たよ、結婚しろオバサン!どこの世界にもこういう叔母さんはいるんですね。
朝顔は叔母の意見を古臭いと思いながら「亡き父にもお前は変わり者だとずっと言われてきました。今更それを変えて結婚するのは変でしょう」。いつの時代も「どうして結婚しないの?」は余計なお世話。お願いだから放っといてあげて。
とはいえ、叔母さんや女房たちが結婚を期待するのも理由があります。桃園式部卿宮の死後、邸は次第に荒れていき、生活の不安を感じていたためです。落ちぶれた宮家の姫といえば末摘花ですが、このままだと朝顔にも極貧サバイバルの末路が十分にあり得るのです。
現実的な心配ばかりの周囲に、朝顔の精神性を理解する人はゼロ。叔母さんにはプラトニックラブなんてわからないだろうし、女房たちの中には「源氏って素敵!抱いて!!」みたいな発想すらあるのですから。
無理解から朝顔はますます内向的になり、「女房たちが源氏を手引するかもしれない、気をつけなければ」と警戒。更にはいつか折を見て出家しようと、密かに準備も始めていました。
源氏も朝顔の経済事情については把握しているので、折々に援助しては誠意を見せつつ、無理強いせずに彼女の気持ちが傾くのを待つ格好。若い頃とは違い、源氏にも無理やり押し倒してまで手に入れたいという衝動はないのでした。
思わず本音がこぼれた、恋人たちへの一言コメント
源氏は物思いに耽るあまり、夜も家を開けて宮中で宿直ばかり。紫の上はもう我慢の限界です。こらえきれず涙が溢れて、源氏に見られてしまう事も増えました。
源氏もさすがに妻がかわいそう(あなたのせいですが)で、涙に濡れた髪をかきやってあげながら「私が留守がちなのは、母君を亡くされた帝が心配だからだよ。太政大臣もいないから私がついていなくては。あなたが気にしている朝顔の君は昔から手紙だけの友達だから本当に何もないんだよ」。
やっと弁解したかと思えばこれ。今だと“SNS(ネット)の友達だから何にもない”に似た感じ。でも源氏は会いにもいっているわけで、弁解されても余計にモヤモヤ。紫の上は顔を背けたまま機嫌が治りません。
ご機嫌取りに終始しているうち、庭には雪がつもり一面の雪景色。源氏は気分転換に、童女たちに雪遊びをさせます。女の子たちは夢中になって雪玉を転がし、走り回って扇を落としたり、雪玉が動かなくなって困ったり。和やかな様子に、源氏はふと子供の頃のことを思い出します。
「ずっと昔、宮中で雪山を作って遊んだことがあった。誰でもやる遊びだけど、藤壺の宮は面白いアイディアを思いつかれて、とても楽しかった。ちょっとした事も素敵に変えられる方で、何につけても亡くなられたのが惜しまれるよ。
もちろんあまり詳しくは存じ上げないけど、私を信頼できる相談相手として見てくださっていたし、私の方でも色々と宮にご相談した。知識をひけらかすようなことはないのに、いつでも適確なアドバイスを下さった。
たおやかで優しいのに、芯の強い気高い女性……あんな人はもうこの世にはいらっしゃらないだろう。あなたは宮の姪だからとても良く似ているけど、嫉妬するのが玉に瑕だね」。そんな人と比較されても、どうしたらいいんでしょう?
続いて朝顔については「今や風流なやり取りが出来るのはこの人だけ」。紫の上が「朧月夜の君はとても賢い方なのに、どうしてあなたとあんなことになったの?」と質問すると「あの人は本当に華やかな、綺麗な人だよ。自分のせいで彼女を巻き込んでしまって今も後悔している」と反省の弁を述べ、ちょっと涙ぐむ一幕も。
明石については「身の程をわきまえて慎ましいけれど、反面なかなかプライドが高くて、時々それがひっかかる」。それに比して花散里は「善良で心優しい。若い時からずっと変わらず、穏やかないい関係を築けている貴重な人」とコメントしています。源氏は立場が悪いと饒舌になるタイプですが、紫の上はおかげでライバルたちの情報がちょっと聞けました。
雪の庭を眺め、あれこれと思いを巡らす紫の上の様子は本当に藤壺の宮に生き写しです。源氏は(なんてよく似ているんだろう!)と嬉しく思いながら、2人で床につきました。
「とてもつらい目に遭っているの」夢での悲しい再会
想いが通じたのか、源氏の夢には宮が出て来ました。ところが、彼女はとても恨めしそうに「あの秘密は守り通すと仰ったのに、どうして?私の罪はすべて明らかになってしまい、とてもつらく恥ずかしい目にあっています……」。
源氏は返事をしようと声を上げ、それに驚いた紫の上の「あなた、どうしたの?」という声でハッとしました。夢とわかっても胸が騒いで、涙がとめどなく溢れてきます。せっかくあの人に逢えたのになんて悲しい夢だろう。どんなに面影を重ねても、紫の上は宮じゃない。何のことかわからない紫の上は、なんだか除け者にされたような気分で、隣で再び横になりました。理由を知らない彼女の疎外感や寂しさは本当に気の毒です。
源氏は夢が気になってよく眠れず、翌朝から寺でお経を上げてもらうように頼みます。(あの事が妨げになり、成仏していらっしゃらないのだろう。どんな思いをしてもいい、あの人の苦しみを代わってあげたい)。好きな人の苦しみを肩代わりしたいという無私の愛を、源氏はまだ宮に向けています。
とはいえ、おおっぴらに宮のために法要を営むとあらぬ疑いを招きかねず、帝の気をもませることにもなる。源氏自身は心の中でひたすら宮の冥福を祈るのが精一杯でした。
朝顔への憧れ、紫の上への愛しさ、それらの底に流れ続けるのは最愛の人への尽きせぬ想い。養父に言い寄られた斎宮女御も、結婚しないと言っているのに迫られる朝顔も、一番近くにいながら寂しい思いをした紫の上も、源氏の”宮を失った喪失感”に振り回された被害者と言えそうです。結局、朝顔へのプロポーズも宮の一周忌を過ぎたあたりで収束へ向かい、2人はその後もプラトニックな関係を続けます。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/