どう見る? 京都アニメーションの集大成 『たまこま』

  by こさめ  Tags :  

『たまこまーけっと』は京都アニメーションにおける初のテレビ向けオリジナル作品である。京都アニメーションの代表作品といえば、何と言っても『けいおん!』や『涼宮ハルヒの憂鬱』であろう。では、『たまこまーけっと』の魅力とは何であろう。

 

『涼宮ハルヒの憂鬱』では『エンドレスエイト』といった、京都アニメーション独特の手法が選択されている。原作の原理に忠実でありながら、コンスタントに放映されるアニメでしか表現できない手法に挑んだ『エンドレスエイト』は物議を醸した。一方、オリジナルストーリーでありながら、原作のキャラの魅力が発揮される回もある。第一期最終話『サムデイ イン ザ レイン』だ。原作では必ず事件が起きねばならない。そのため、原作では描かれることが不可能な「彼らの日常」が、この回では淡々と描かれている。

『涼宮ハルヒの憂鬱』では少年『キョン』の視点を通じて視聴者にもたらされていた共感を、ダイレクトに視聴者に提供したのが『けいおん!』ではないだろうか。「日常」を舞台とすることで、少女たちの魅力をより身近にし、二期では彼女らを尊敬する後輩の存在が同性愛的な視点を見る側に与えた。『けいおん!』こそ「百合男子」 を生み出すきっかけだったのではないだろうか。

『けいおん!』や『涼宮ハルヒの憂鬱』の共通点のひとつとして、ヒロイン像の新しさが挙げられるだろう。『涼宮ハルヒ』や『平沢唯』の共通点として、無自覚な毒、つまり小悪魔的な魅力がある。周囲とうまく溶け込めず、異端的発言を行い、人智を超える情報を発信する神的存在の『涼宮ハルヒ』。一方、『平沢唯』は一般的な女子高生として周囲と調和している。だが、彼女もまた極端な「天然」を発揮し、それと知らずに周囲をかき乱す存在だ。『唯』の無自覚な毒は『けいおん!』一期最終回の名言「よく考えたら、いつもいつもご迷惑を…こんな大事な時に…」に象徴される。周囲が『唯』に乱されてきたことを自覚する瞬間、その自覚とともに、周囲は彼女を許し、無自覚な毒は浄化される。視聴者も安堵する。しかし、その安堵こそが緊張状態…トラブルメーカーから解放される瞬間であったと言えよう。どんなことが起きるだろうかとわくわくする期待からの解放は、最終回でしか起こりえない浄化だった。二期では、後輩『中野梓』視点によって、一般的な女子高生である少女『唯』が、独特の魅力を帯びはじめる。等身大の存在でありながら、その対象を尊敬する者にとって特別な存在として描き出される。しかし『唯』自身は自ずから魅力を発散していることについて、相変わらず無自覚のままだ。

さて、『たまこまーけっと』だが、前出の二作品との相違は何であろうか。

まずは、原作の有無だろう。これまで京都アニメーションのテレビ向け作品は、その手法、演出と作画の質の高さを賛美されながらも、原作ありきの展開だった。原作なしのテレビ向けオリジナルアニメは『たまこまーけっと』が初めてだ。

『たまこ』が「バトン」を用いるOPは、まるで魔法少女アニメのように新鮮に感じられる。しかし、京都アニメーションのファンであれば、既視感に陥るのではな かろうか。そう、先述の『涼宮ハルヒの憂鬱』の『サムデイ イン ザ レイン』だ。この回は『涼宮ハルヒの憂鬱』における京都アニメーションの演出の極みとも言える。そして、その後に展開される作品群で同社の手がけた共通テーマ「現実的な日常」へのこだわりの端緒と言っていい。

『サムデイ イン ザ レイン』の全体を流れる空気感は雨の演出とあいまって、なんとも恬淡としている。その雨の空気すら伝わってきそうな「気配」の描写はけして理想的な現実ではないが、「何も起こらない」本当の日常が描かれている。

『SOS 団』のプロモーションビデオを撮影すると息巻くヒロイン。彼女にふりまわされるヒロインの友人たち。そして、ヒロインの用命を受けてお使いに出される主人公。視聴者と作品世界の架け橋である主人公が、作品の舞台である学園から不在となった途端、ヒロインに奇跡を起こさせる因子の存在が欠かれる。つまり学園に束の間の平和が訪れるというストーリーだ。トラブルシューターである存在『長門有希』が延々と読書を楽しむ描写に、その平穏は象徴される。そのように架け橋を失った世界、何も起こらない日常で、ヒロイン『ハルヒ』と、友人『朝比奈みくる』は、PV撮影のために体育館でバトンを操る。神的存在の『ハルヒ』は上手にそのバトンを操るが、『朝比奈みくる』はバトンをうまく操れない。『みくる』のどじっ子ぶりに、視聴者はにんまりするという演出だ。

このバトンというアイテム、『涼宮ハルヒの憂鬱』においては異質と言えるオリジナルストーリーでのみ登場する道具だ。『サムデイ イン ザ レイン』はあくまでも彼らの日常性を描いている。脚本は原作者の谷川流だが、非日常を描く『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ全体においては異端の回と言えよう。

その「異端」の「現実的日常」で登場した「バトン」を握って登場したのが、今回の『たまこ』である。そのため、「バトン」は、単に魔法少女的演出であるとは言いきれない。京都アニメーションの初オリジナル作品のヒロインの持ち物としては、「バトン」こそが最適であると言える。

今後の着目点は、このシリーズが、あの『サムデイ イン ザ レイン』に象徴された「現実的日常」を真に描いたものであるか、ではなかろうか。

ところで、主人公におけるバトンの扱い方を見てみよう。OPでは上手にバトンを操っている彼女だ。第一回の冒頭でも、商店街に入る前にバトンを放り投げてキャッチしようとする。しかし、本編における『たまこ』は『朝比奈みくる』同様にバトンをうまく受け取れない。これは『みくる』との共通性を暗喩しているのではないだろうか。

このバトンキャッチのミスは商店街の入り口で起きる。商店街は彼女の「現実的日常」であるはずだ。その入り口において、第一回では、バトンをうまく受け取れないという失敗が描かれる。第二回以降の商店街入り口においては、『モチマッヅィ』が彼女を迎える描写が繰り返される。『モチマッヅィ』は作品世界における「非日常」の象徴だが、彼がたまこと一体化することによって日常に溶け込める仕組みになっている。

『モチマッヅィ』と出会う前の少女の周辺にこそ、日常がちりばめられていたはずだ。

商店街にはさまざまな人々が登場する。母親が姿を見せない子供、同級生に恋をする少女、お姉な花屋の店員、独り身の老人など。こうした人々は少数ながらも確実に現実にも存在する。しかし、『モチマッヅィ』という異分子が紛れても、それをあっさりと受け止めて、それまでと同様に暮らしていく人々のいる世界に現実性があるとは言い切れない。視聴者にとって、それは幻想的な風景として映る。換言すれば、人々が日常を生きる、そのこと自体が素晴らしいというメッセージも感じられる。しかし、見る者にとって、この作品世界には架け橋と呼べる視点の存在が欠けている。そのために、どうしても人物たちが無個性で非現実的に感じられる。

『モチマッヅィ』とは何であろうか。彼の役割は祖国の王子の許婚を探すことにある。つまり、彼は、王家や王国の繁栄を継続させるために遣わされた使者だ。その使命を彼は重要なものと感じ、視点は絶えず少年少女の恋情に向けられる。

昨今では、「恋愛の対象」である異性を極端に美化して「キャラ化」するか、ストーリーから恋愛要素を全く断ち切ってしまうか、「恋愛」を軽視する傾向のあるアニメーションやゲームも多い。中には物語の起承転結を促進させるための「要因」として人物の恋情を利用する手法もとられている。例えば少女の恋心が地球 を救う、といったように、純粋さや聖性の象徴として拡大化させる展開のことだ。そうした作品群において、少年少女の恋心を適正な理性のうちに覆い描く作品は淘汰されつつある。

しかし、現実の人々は、恋情を日常のうちにいきなり披瀝することはない。その点において『たまこまーけっと』には透徹されたリアリズムがある。しかし、当の『たまこ』の優しさにふれると、『モチマッヅィ』の危機感は鳴りを潜めてしまう。実は、ここに、京都アニメーションの描き続けてきたヒロインの魅力の共通性「無自覚な毒」が象徴されているように思われる。

従来の『涼宮ハルヒの憂鬱』や『氷菓』では主人公の少年のものとして視聴者がそこに見立てることのみ許されていた「恋情」。『けいおん!』では、少女だけの世界から弾かれていた「恋情」だが、『たまこまーけっと』では、そこにありながら主人公にとって関心のないものとして除外されている。しかし、それは彼女に悪気があるためではない。「鈍い」ためだと作品世界内で評されている。それこそが「無自覚な毒」だ。

『たまこまーけっと』では、従来描かれてきた日常性に加え、現実性が意識されており、老若男女が描かれている。少女のみがメインをつとめる『けいおん!』、少年少女のみで構成される『涼宮ハルヒの憂鬱』ならびに『氷菓』の世界観からは、その点において一歩踏み出している。特に『たまこまーけっと』では「親」の実在性が非常に高い。これまで、京都アニメーションの作品において「親」はほとんど不在の存在だったと言える。『涼宮ハルヒの憂鬱』では姿を現さず、『けいおん!』では登場するものの、保護者としての存在感は弱かった。それまで登場人物にとって無個性的な存在、「キャラクターの存在理由」であり、スポンサーにすぎなかった「親」が、『たまこまーけっと』では特別なファクターを備えて毎回登場する。「頑固親父」「西洋かぶれ」といった極端な父親像であるものの、間違いなく個性を与えられている。その点で、従来の「学園のなかの世界」からの逸脱を目指していると言えるのではないだろうか。
しかし、「母親」は登場しない。主人公の少女『たまこ』は幼い頃に聞いた母の歌を探しているが、母親そのものは登場しない。思春期の少女が灯台のように商店街を明るく照らし続ける。この危ういバランスの底には常に真の母親の不在がある。この「母的存在」の埋め草として登場するのが『モチマッヅィ』の真の役割ではないだろうか。主人公に求愛されたという誤認識を理由に主人公の家に居座り、 少女を含めた周囲に気を配り、時にはお節介をする。非現実的な存在である『モチマッヅィ』の介入があることで、間違いなくそこに「現実的日常」が抽出される。

 

『涼宮ハルヒの憂鬱』における『サムデイ イン ザ レイン』を見るとき、視聴者は少し退屈な印象を受けながらも、彼らの素顔にふれる喜びを味わうことが出来た。『サムデイ イン ザ レイン』は『けいおん!』一期における番外編『冬の日!』にも相当する。無自覚な毒という魅力を放つヒロインそのものが、その素顔を見せるとき、当人は退屈しているものだ。現実を描いた作品は視聴者にも多少の退屈を与えるのかもしれない。しかし、彼らの素顔を鑑賞するという意味では圧倒的に新しかった。

従来の原作つきの作品『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん!』では、ヒロインそのものの魅力が大きく、主人公の少年や後輩への共感を強くしたファンのためにも、ヒロインが自身の気持ちを吐露することができないというアイドル的な恋愛への制約があった。その制約を抜け出して、恋情への関心を『たまこ』が見せる展開があるとすれば、それは京都アニメーションにとって禁忌を破る行為と呼べるかもしれない。しかし、この作品でも、従来のように、ファンを大切にし、共感を重視されることが期待されているはずだ。

『たまこまーけっと』は京都アニメーションの集大成的な作品だ。ちりばめられるメタファーを見つける楽しみを味わい、過去の作品を思い返しながら鑑賞するスタイルが適しているように思われる。もしかしたら、今後、そのような期待を裏切る展開をはらんだ作品も京都アニメーションから生み出されることはあるかもしれない。しかし、前述の通り、『たまこまーけっと』は京都アニメーションにおける初のテレビ向けオリジナル作品である。また、京都アニメーションオリジナルアニメ制作10周年記念作品でもある。筆者個人としては、この作品でそのような冒険は犯されないものとして着目している。

漫画・アニメ関連/LGBT関連/書籍関連/猫関連などを執筆します。特にGL・百合関連を追いがちです。