何でも話し合う親友にも言えない”あの夜の秘密”
初めて心から愛した女性、大君を失った悲しみが癒えない薫。誰にも言えない胸の内を親友には打ち明けようと、匂宮のもとを訪ねます。お正月の宴会続きの賑やかさが一段落した頃でした。
宮は良い香りのする花が大好きなので、この日も琴を弾きながら庭の梅を眺めていました。薫が気を利かせてその枝を折って参上すると「梅は薫に似ているね。色には出さず、香りだけを含んでいる」。遠回しな言い方ですが、もしやお前、中の君に気があるんじゃないか?と冗談めかしていいます。
「これは困った。言いがかりをつけられるような花の枝には気をつけなければ」。冗談を言い合う親友同士のシーンですが、薫は内心ヒヤリ。今となっては、中の君と結婚していればよかったとしきりに後悔しているからです。
薫は宇治でのあれこれを事細かに話しました。初めて大君の姿を覗き見たその時から、彼女の死まで。約3年間の悲恋の物語に、涙もろい匂宮は真剣に耳を傾けます。男同士の長話は夜遅くまで続きました。
それでも、薫と大君が最後まで何もなかったというのが信じられない匂宮。「まさかそんなことはないだろう、本当のところは?」と勘ぐりますが、確かに薫のような男ならそういう恋もありうるのかもしれない。人の心に敏感な宮は薫を慰め励まし、おかげで重苦しかった薫の心もずいぶんと軽くなります。
話は、中の君を二条院に迎えるための具体的な相談に移ります。「中の君が京に移るのはとても喜ばしいことです。僕のせいでこんなことになったとずっと気にしていましたので。
大君もくれぐれも妹をよろしくと頼んで逝きました。僕はその遺志をついで、引き続きどんなことでもお世話差し上げるつもりでおりますが」と、生前の大君が自分と中の君の結婚を望んでいたことをちょっとだけ話します。
でも、何もなかったとは言え、大君と間違えて中の君の寝込みを襲ってしまい、二人で一晩過ごした夜のことはさすがに言い出せませんでした。それでなくとも、男女間というのは常に何かあって当たり前、というのが恋愛体質の匂宮の考え。下手なことを言えばやぶ蛇です。
しかも、当時と今とでは薫の気持ちが変わっています。大君がいる間は中の君のことはどうとも思っていなかったのに、今となっては彼女の代わりに妹の中の君がそばにいてくれたらいいのに。大君の勧めたとおり、中の君と結婚していればこんな悩みはなかったのに、とそればかり。
後悔先に立たずとはわかっていても、薫はこの煩悶を繰り返さずにいられない。そしてそれは、繰り返すうちに少しずつ膨れ上がり、どんどんと高じていくのです。
(こんな事ばかり考えていたら本当に不祥事を招きかねない。もしそんなことになれば、誰にとっても恥ずかしく馬鹿げた醜聞になるだろう。それより、実際のお引越しの手伝いをしなくては。今となっては、僕しか世話役がいないんだから……)。薫は苦しい心を抑え、誠意を見せることに尽力します。
「本当にここを離れていいの?」引っ越しを前にひとり葛藤
その頃、宇治でも上京の支度に余念がなく、新たにきれいな若女房や童女などをスカウトし、新生活への期待感でいっぱいです。ただ中の君だけは、この住み慣れた宇治を離れるのが心細くてたまらず、ため息をついてばかり。かといって、強情を張ってここに居残ろうとも思えません。
ここで宮を待ち続けたとしても、物理的な距離がネックになって、自然とフェードアウトしてしまうかもしれない。でも上京した所で、宮の心は当てにならず、将来の安泰が保証されるものでもない。私なんかが京に行っていいのだろうか、人様の笑いものになるだけじゃないのか。ましてや薫以外に知り合いもいないのに……と、独り悶々と悩んでいます。
悩むうちにも時は過ぎ、大君の喪が明けました。姉妹の喪は3か月と決まっているので、禊をして喪服を脱がなくてはなりません。(生まれてすぐお母様と死に別れた私にとって、お姉さまは母のような存在だった。できれば親の喪と同じようにしたい)。とは思うものの、決まり事なのでそうもできず、悲しみが改まることはありません。
「早いものですね。霞の衣(=喪服)を作ったばかりなのに、もう花のほころぶ季節になりました」。薫は和歌と共に禊に必要な人やもの、そして上京の時の衣装などを揃えて届けます。
細やかな心遣いに老女房たちは「たとえ本当のご兄弟だってここまではしてくださいませんよ。なんとお優しい、気のつくお方でしょう」。一方で若い女房たちは「これからは薫の君をなかなか拝見できなくなるのね。寂しい……」と、それぞれに感慨を語ります。
未練と執着は父譲り? 今は返らぬ在りし日の記憶
引っ越しの前日、薫本人が宇治へやってきました。いつものように客間に入ると、在りし日の思い出が蘇ります。(何度もこうして宇治へ来るうちに、大君と自然、そういう仲になって、彼女を京に迎え入れる日が来るものだと信じていた)。
気丈だったけれど決して険悪な態度は取らず、いつもどこか優しいところを見せてくれた大君。でも自分に勇気がなかったせいで……と思うと、今でも胸が痛いほどに悔やまれます。
去年の夏頃、八の宮の喪中にこっそりと姉妹を覗き見た穴はまだ残っていました。薫は目を近づけてみますが、中の部屋は戸を締めてあるらしく何も見えない。姉妹が揃っていたあの日はもう帰ってこないのです。
中の君は明日の引っ越しも気が重く、部屋で横になっていましたが、薫が来たと女房たちが泣き騒ぐので仕方なく挨拶に出てきました。久々に見る薫は一段と立派に美しく、素晴らしくなったような気がします。その姿を見て一番に思い出されるのはやはり、亡き姉・大君のことです。
「お話したいことはたくさんありますが、おめでたい日の前ですから差し控えますね。お引越し先の二条院は、私の家のある三条とも近所なんですよ。だから夜中でも早朝でも、なにか御用があればいつでも駆けつけます。
僕の命のある限り、あなたのために尽くそうと思っている所存ですが、出過ぎたことをしてかえってご迷惑に思われるかもしれませんし、あまり一方的なのもどうかと思いまして」。
中の君は途切れがちに「ここを離れたくない気持ちばかりが強くて、ご近所に、などと仰られましても、なんとも申し上げようがございません」。その様子が大君によく似ているのを見ても、薫は(どうしてこの人を宮に勧めてしまったんだ)と悔しいばかりです。今更そんなこと言ってもねえ……。
また、庭で咲く大君の遺愛の梅を見てそれぞれ別の感傷に浸る中の君と薫ですが、中の君は「愛でてくれる人もいなくなった山里に、懐かしい香りだけが匂うこと」と言い、薫は「亡き人の愛された梅(=中の君)は今も変わらぬ匂いですが、根ごと移されるのは他人の家なのでしょうか」と、ここでもまた未練がましい。
自分と一夜をともにしたこともある彼女なのに、まるごと移っていくのは宮の二条院。亡き大君への愛恋未練が生き残った妹の中の君への執着にじわじわと移り変わっていく様が生々しいです。
この執念深さは父の柏木譲りか、とも思いますが、父は女三の宮の姉・女二の宮と結婚しても似ていなかったために心を移さず、最後まで怖いくらい女三の宮を思いつめて死んでいきました。しかし今回は微妙に姉妹が似てきたことも手伝い、余計に薫の煽る結果となっているのが厄介です。
秘密を知る老女の出家、カギを握る3つのキーワード
さて、薫に出生の秘密をもたらした老女、弁の君は出家して尼になっていました。「思いがけず長生きしたために、さまざまな悲しい場面に立ち会ってまいりました。めでたき門出にこのような老婆がいては不吉に思われるでしょうし、世の人に自分が生きているとも知られたくありません」。
昔はさぞ美しかっただろう名残の髪を削ぎ落として、おかっぱ頭のようになった弁は、かえって若く見えるようでした。薫は姿を変えた弁を呼び出して、しみじみと大君の思い出話をして「ここへはこれからも時々来るつもりだけど、誰もいなくなって寂しいと思っていた。でも弁がここに残ってくれると聞いて、本当に嬉しいよ」。
「はやくお迎えが来て欲しいと思えば思うほど、長生きをするのがつろうございます。また、うら若い大君さまにも先立たれてしまったのが誠に恨めしい限りです。本当に、この年寄りに生きてどうしろというおつもりなのでしょうか」。
愚痴っぽくそう言って嘆く弁を慰めながらも、薫は(大君も最期の時に出家を望んでいたようだ。なぜそうさせてあげなかったんだろう。もしかすると命が助かって、二人で心を合わせて御仏に帰依する、そういう清らかで親密な交際が出来たかもしれない……)。
「涙の川に身投げをしていれば、死に後れることもなかったでしょうに」との弁のボヤキに、薫は「そんな死に方をしてはだめだ。自殺はとても罪深いことで、極楽往生なんてできなくなってしまうと言うよ。とはいえ、いつまでも悲しみに浸って生きるのもつまらない。すべてこの世は無常なものだから」。
弁には偉そうにそういいつつ、薫は「たとえ涙の川に沈んでも、恋しい人の思い出を忘れることは出来ないだろう。いつになったら僕の気持ちが慰められる日が来るのだろうか」と、終わりなき悲しみを痛感します。
いつまでもここにいたい所ですが、今となっては人妻の中の君のいる山荘に夜遅くまで滞在するのもおかしなこと。余計な疑いを避けるために、薫は仕方なく帰路につくのでした。
尽きせぬ薫の未練と、「川」・「身投げ」・「自殺」の新たな3つのキーワード。決しておめでたいだけではない人生の節目を迎えた中の君の運命と共に、物語は新たな展開を迎えます。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
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