この記事は「軽蔑していた愛情」考~世を儚む少女たちに想像力を寄せて~【AKB48の歌詞を読む(1)】
と連続しています。
前回、私は、軽蔑していた愛情を題材に、現代の少女らの持つ閉塞感について論考した。
この記事では、その閉塞感に対してのひとつの答えを、同じくAKB48の楽曲「偉い人になりたくない」を用いて、紹介したい。
歌詞は以下から、確認してほしい。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND118706/index.html
この曲は、その始めから、毎日、学校に行くことを否定している。
勉強ばかりじゃだめになるという言葉は、明らかに学歴社会への批判だ。
監獄みたいな教室というワード、校則フェチの先生と模範囚というワードからは、その窮屈さが受け取れる。
現代においては、以前ほどの管理教育は散見されなくなった。
しかし、依然として、学校教育の現場においては、意味のない校則や現実に即さない生活指導が行われていると容易に推し量れる。
加えて、以前であれば、それに反抗するといった文化が生徒の側にあっただろうが(つまり、尾崎豊の楽曲ではないが、学校=支配の図式の中でそれに歯向かうことが美徳であり、不良に憧れるという文化があったはずだ)
現代においては、無力感、換言するなら、何をやっても一緒、何も変わらないという閉塞感が生徒の側を支配している部分があるはずだ。
言うなれば、学校という監獄で、教師という名の看守のような指導に対する模範囚的な振る舞いが行われる。
何故ならば、それが一番「楽」だからだ。
歯向かうよりも、従う方が幾分楽。怒られるくらいなら、褒められる道を選ぶ。
そんな選択がマジョリティのものとなっているのではないか。学校という集団心理が働く場においては、その行動パターンの変化は極端に推移しているだろう。
つまり、みんなと違うと笑われるかもしれない、バカにされるかもしれない。イジメられるかもしれない。
そのような集団心理の下、スマートに物事をこなすことが美徳とされる現代では、一時代前よりも学校組織が一見円滑に運営されている。
今や、教師の関心も生徒ではなく、保護者に向かっている。モンスターペアレンツという言葉に代表されるように。
ますます、生徒の無力感、閉塞感は増大し、何もしようとはしなくなる。
生徒も理解しているのだ。教師に歯向かっても意味がないことを。教師に自分の意見を通すことの無意味さを。
一時代のように、教師が聖職視されることも減った。親も敬わなければ、生徒も心の底では敬っていない。
普通の大人。教師だからといって、すごい人間ではないことを理解して、聞き分けのなさを諦念の下に仕方ないと処理する。
学校でがんばって偉い人になるよりも、自由でいたい。
型に当てはめられた答案用紙に、自分自身の答えはかけない。
深く考えるのではなく、肩の力を抜いてしまえば、心の奥にある重い荷物を外に出すことができる。
社会人になっても同じ。閉塞感に苛まれるよりも、時々、息抜きをしておこう。
ここにも、学校組織と同じ権力構造がある。
上司と部下。
上司の不条理な命令をNOも言わずに、もくもくとこなす同僚を秋元氏はサイボーグと表現する。
仕事に対しての人間らしさが欠けているということだろう。
仕事はいいことばかりではない。やりたくないこともやらなければならない。
しかし、心を殺して、何がやりたいことかも分からなくなるくらいに、仕事に励んで出世をするくらいなら、やりたいことをした方がいい。
これは、理想論かもしれない。成功者である秋元氏だから、言える部分もある。
けれども、現実に、自分の得意ではない仕事に突き進み続けて、心も体も駄目にすることはよくある。
それよりも、少し昇進が遅れても、自分としてのアイデンティティくらいは保てるくらいに、人間性を保てるくらいに仕事に取り組んだ方がいい。
自分が駄目になってしまうことよりも、自分を守ることを選んでいいんだというメッセージ。
窓の外の景色が綺麗だと気づけるくらいに、自分を取り戻そう。
期待されなければ、人生は楽しいという秋元氏のメッセージは、自分の生きたいように生きていいんだというメッセージだと読み変えられる。
秋元氏の言う、競い合うことをやめてしまえばいいというメッセージをそのまま受け入れられるほど、今の私には余裕がない。
すべての競争が終わってしまったら、今までの社会の発展もなくなってしまうだろう。
しかし、例えば、仕事中に息抜きをするくらいのことはできてしかるべきだ。
それも、できないほど、行き詰った社会なのだったら、いっそ捨てさっていい。
それくらいに、肩の力を抜く準備は私にもある。
だから、この世界に閉塞感を持っているすべての人々に向けて、少し休んでも大丈夫、少し周りを見回してみてほしい。
きちんと、想像力に満たされた社会、未来への想像力に満たされた社会になっているだろうかと語りかけたい。
もちろん、その中には、私も含まれる。