西洋の人間は風刺画は「表現の自由」だと言う。しかし、その「表現」は、イスラム教徒から見れば「ふざけるな!」と怒鳴りたくなる「侮辱」となる。
表現の自由と名誉毀損は西側の国でもしばしば衝突する。しかし、それ等の多くは法廷で争われ、“表現の自由”が勝つこともあれば、また逆に負けることもある。事実や公益を伴わない表現は、“表現の自由”とは認められないからだ。
ならば、フランスにしろデンマークにしろ、その国に住むイスラム教徒、あるいは弁護士が、風刺画を掲載した新聞社を訴えればいいのではないか?とも思う。
しかし、イスラム過激派はそういった穏便な方法はとらない。感情をむき出しにし、報復、オトシマエを取りにくるのだ。
法律や正義は国によって変わる。フランスでやデンマークでは“表現の自由”であり“正義”であっても、他国ではそれが必ずしも“正義”とはならないのだ。仮に日本の新聞社や出版社がこの種の問題を起こせば、大抵は世論から“悪”と見なされるだろう。
西側の国はイスラム過激派の行為を過激すぎると言う。しかし、よく考えて欲しい。こういった恨みつらみの犯行は、実は日本や西洋でも日常茶飯事に起こっているのだ。
「彼女にバカにされた」、「彼にバカにされた」、「子供に侮辱された」、「思わずカッとなって」・・・等々。
銃やナイフを使ったか、殴ったり蹴ったりしたかの違いはあるが、これ等の犯行は全て“侮辱”に対する報復なのだ。西側の人間はそれを「テロ」と呼ぶのでキナ臭くなるが、その動機、本質は、西側の国で日常茶飯事に起こっている「思わずカッとなって」の怨恨による犯罪とさほど変わりはない。
日本でも程度の差はあれ、いじめやハラスメントで相手を“侮辱”していることが多々ある。言った本人はそれほど気にも止めていないし、訴えられることも稀だから罪の意識もさほど持っていない。しかし、言われた側、侮辱された側は、もしかしたそうは思っていないかもしれない。
つまり、何を言いたいのかと言えば、「相手をバカにしたり侮辱したりするのなら、それ相応の覚悟を持って言え」ということだ。
「侮辱した相手が翌日にナイフや銃を持って目の前に現れるかもしれない・・・」。
そんな光景を想像し、また、そうなっても構わないと覚悟したうえで発言しろということだ。そういう光景を想像した上で発言している人は一体どのくらいいるのだろうか。多くはそんな覚悟もなしに、平然と、あるいは得意げに相手を侮辱しているのだろう。
“口は災いの元”とはよく言ったもので、不用意な発言で身を滅ぼす人はとても多い。口だけではなんとでも言えてしまうからだ。しかし、その発言には責任が伴うのだ。
“表現の自由”を声高に唱える人も多い。確かにその権利を守ることは大事だと思う。しかし、相手を侮辱するような表現まで“表現の自由”として擁護すべきだろうか。
相手を傷つけてまであえてその“表現の自由”を貫くのなら、それ相応の覚悟をもって表現する必要があるだろう。「表現」を生業としている人はもちろんのこと、影響力の大きい新聞社やテレビ局ならなおさらだ。不測の事態になってからでは遅いし、誰も助けてはくれないのだから。
画像引用:
Caricature Artist!!! / Natesh Ramasamy
https://www.flickr.com/photos/ramnaganat/6912322836/
※筆者サイトより一部転載
http://melodious.at.webry.info/201502/article_1.html