来月行われる凱旋門賞の前哨戦が行われ、昨年の凱旋門賞覇者トレヴが敗北、昨年2着のオルフェーヴルが前哨戦に選んだフォワ賞を制したのが昨年のニエル賞でキズナの2着だったルーラーオブザワールドと混戦模様に拍車がかかってきました。
上の図は記事の言葉レベルと読者の興味の相関図になります。
縦軸は読者の興味になります。ここでは赤線まで興味が到達すれば記事を読むことにします。
横軸は言葉レベルになります。
婉曲のレベルはもってまわった言い方か、簡単な言い回しに該当します。例えば「フランス競馬レース結果」というタイトルなら多くの人は記事を読まないでしょう。
通常のレベルは事実にかなり忠実な言い回しに該当します。例えば「トレヴ敗北、ルーラーオブザワールド復活」あたりでしょうか。
誇張のレベルは事実に反しない程度で興味を引くような言い回しに該当します。例えば「悲願の凱旋門賞制覇に大チャンス、前哨戦で波乱」のようになります。
婉曲より左の言葉は事実に反するほど過小評価をする言葉で、誇張より右の言葉は事実に反するほど過大評価をする言葉になります。
言葉には射程範囲があります。例えば犬という言葉を聞いて思い浮かべるものは人それぞれですが、動物としての犬だけでなく、ぬいぐるみやキャラクターを思い浮かべても間違いではありません。誤用されても意味が通じてしまう言葉さえありますが、報道機関が使う言葉は事実に反しては意味がありませんので、図の婉曲から誇張までの言葉を使うことになります。
通常だけにすれば良いと思ってしまうかも知れませんが、災害時などパニックが起こりやすい状況ではなるべく婉曲な表現の方が良いでしょうし、商品のコピーは誇張に近い表現を使わないと売れないでしょう。
図の青い曲線は言葉と興味の関係を表しています。①の曲線は非常に興味があること、②は普通に興味があること、③はあまり興味がないこと、④は関心がないことになります。世界で活躍する選手を輩出したスポーツが人気になるように、優秀なキャッチコピーは③を②や①に変えてしまう力があります。
コピーライターが事実に反さない誇張か、事実に反する捏造かの境を探求する一方で、競馬関係のコメントは控えめなものが多くなっています。お金がかかっていますので、事実を出来るだけ正確に書いてもそれを誇張して捕らえる人がいると困るからでしょう。
朝日新聞問題は記事が誇張を超えてしまったところにあります。しかし誇張を超えることが絶対に悪いことなのでしょうか。
例えば調教師が、「今回は叩き台だから無理は出来ない」と言ってしまったら、その記事を読んだ人はその馬を買わなくなります。人気が落ちたのに勝ってしまったら八百長ではないかと言う人が出てきます。無理できないという判断が調教師の専門的知識から導き出した結論でも、調教師が弱気で言ってしまったことでも、ギャンブルが必要とする公平さの前では霞んでしまいます。「休み明けだけど頑張って欲しい」というありきたりな言葉にかえると事実に反する誇張を超えた表現になりますが、許されることになります。
報道機関の役割は、知る権利に奉仕すること(博多駅事件での最高裁の指摘)で、真実を報道することが求められます。しかし、真実とは何かと聞かれると簡単に答えることはできません。映像が真実に近いとしても、何でもかんでも映像で流すことを良いと思う人はいないでしょう。
反省がないと言われている慰安婦記事問題は何が真実なのでしょうか。
奨学金返済の問題がニュースになることがあります。一般的には関心のないことで、借りたのだから返せとか、自己責任という意見が見られる程度でしょうか。若者の貧困を扱ったものになっていますが、実際はいろいろな問題を抱えています。
奨学金問題には親が勝手に借りたケースや、支払いのために風俗で働いたケースなど奨学金の意味を成していないものまでありますが、仮に教育の費用は学生に貸しただけなのだから全ての人が返済するという法律ができたらどうなるのでしょうか。教育を与えて良い労働者にしないとGDPが落ちるから国が出すべきとか、未成年者は判断能力が不十分だから借りたことは取り消せるというような主張が増えると考えられます。返済する人が一部か全員かの違いで関心度は大きく変わりますし、主張も変わってしまいます。
慰安婦記事問題も同様で、仮に戦時売春婦の実態という記事ならば関心も低く、どんなに人権が侵害されていても自己責任論が主張されるでしょう。民主主義では人権を侵害された場合裁判で救済されるシステムになっていますが、主張の強さで勝ち負けが決まる裁判では少数派は不利になりがちです。少数派の意見をくみ上げるのが報道機関の役割ならば、戦時中に人権侵害にあった人に関心を持ってもらうためには誇張を超えた表現も致し方ないことになります。慰安婦記事は誇張を超えた表現をすることで図の④の人が赤線に達し、記事を読ませる力がありました。同様に、学生を風俗に売って奨学金を回収という記事が出れば関心を持つ人が増えて、奨学金のありようなどの議論が活発になるでしょう。奨学金がより良いものになれば、捏造記事が社会的な役割を持つことになります。慰安婦記事は残念ながら人権問題の議論が活発化して少数の人権が改善されるようにはなっていないと思われます。
戦時中にあった人権侵害について考えて貰いたいという趣旨なら事実に反する誇張表現もある程度許容されるとしても、物語にまでしてしまったのは報道機関としてあってはならないことになります。
歴史的に共同体は物語で秩序の説明をするようになります。古代社会では宗教という物語が共同体をまとめる役割を果たしていました。しかし、共同体が交わるようになると、一つの物語では説明できなくなり、哲学が生まれることになります。哲学は人権を生み出したので、人権と物語は相反するものになるはずです。つまり、慰安婦記事は相反関係にある報道と物語を融合させてしまったところに一番の問題があるのです。
ギャンブル関係でも少数の人権問題でもその使命の前では逸脱した表現方法を用いざるを得ないことがありますが、逸脱しすぎたときは早めに訂正をすることがより大きな使命なのだと感じる事件です。