将棋のルーツは、インドや中国にあるのだろうが、いわゆる現代の将棋、本将棋という形になったのは、諸説あるが、いつ頃であったのか定かではない。
江戸初期には確実にあったことは間違いないため、そこを起点としても、約400年の歴史がある。
これはひと口では言えない重みがある。完全に日本の伝統文化である。
棋士と言われるプロの将棋指しとは、一体いかなるものか。
彼らの存在意義と職業自覚とは、どうなのかを考えたい。
ところで、世の中はグローバル経済になり、着実に日本もその影響を受けている。
ひと昔まえであれば、日本中津々浦々に腕のいい職人がたくさんいた。
高度成長時代が終焉し、バブルが弾け、日本の産業は成熟しきった。果物でいえば、熟れ過ぎて棚落ち状態である。
それまで腕のいい職人は跋扈し、相応の対価を求めても許されたが、今では影を潜めている状態だ。
これは言わずと知れた、日本経済の屋台骨を支える製造業が、こぞって海外へ進出したからだ。海外の安い賃金の労働力を使い、効率重視のオートメーション化をし、製品構造を単純・均一にし、作業のシステム化を行った。
アジア製品が台頭してくるなか、コスト競争のなかで、企業の選択として避けられないことであっただろう。だが、ことはそんな簡単ではない。日本の仕組みにも問題があった。
日本在所の企業には、高額の法人税や雁字搦めの規制、高い労働賃金と三重苦となって締め付けたからだ。
そして、2011.3.11東日本大震災がとどめを刺した。あの大震災で完全に流通がストップし、日本の製造業は大打撃を受けた。東北には製造業の下請けがたくさんあった。
企業は脱兎のごとく、海外進出に拍車が掛かった。
故に現在、日本の製造業は疲弊している。特に中小企業は受注がないのである。
アベノミクスで株価や円の値が良い方向に変動しても、それはまだ中枢末端には浸透していない。
これからの課題である。これでは職人は技の伝承も間々ならず、消えてゆくのではと危惧するばかりである。
将棋棋士は、そんな経済、景気といえばいいか、世界とはほぼ無縁の世界である。
多少のことは、日々の暮らしで感じているだろうが、ほぼ無縁だと思う。
彼らは幼少の頃より、その才能を見出され、早い者であれば小学生、普通中学生くらいからプロの養成機関に入る。プロになる門は狭く、ほんの一握りの者だけがプロになれる。
これはどの世界でも同じことだろう。
学歴も将棋に専念するため、義務教育の中卒ということも珍しいことではない。最近は、高卒や大卒も増えてきている。少し辛辣に書けば、彼らは将棋のことは誰よりも深く知っているが、他のことは知らない。社会人として労働、生活をしていないので世間知らずと思うかもしれない。
だが、この表現は正しくない。
なぜなら、彼らは芸術家であり、職人なのである。そして、文化継承者ともいえる。これが彼らの存在意義なのだ。従って、職業としての自覚は希薄なのかもしれない。
確かに労働という過酷なストレスのなかでは生きていないが、勝負の世界で生きている。
それはおそらく経験したものでないと、その過酷さは伝わらないことだろう。筆者も想像するに過ぎない。常に明確に結果がでる勝負の世界にいるわけで、負けが続けば、当然報酬にも影響するだろう。プロを引退する者もいるかもしれない。つぶしが利かない職業である。
そんなことを思うと、彼らは擁護されるべき存在だろう。
そして、職人が日本から消えゆくなかで、後世に残すべき存在である。