先ず、オカルトって聞くと、なんか胡散臭い、怪しいというイメージが拭えないと思う。
オカルトを辞書を捲ると、”超自然的な(現象)”ということになる。オカルティズムは超自然主義や神秘主義のことである。
となると、次に超自然的というのは何だとなるが、怪奇なもの・・・心霊現象やUFOなどいうことになるのか?! つまり、現代科学で解き明かせない不可思議なものということになる。
だが、それは今の話であって、遥か昔はどうだったのかと考えたい。
まだ、科学や医学が発達する以前、世の中はオカルトだらけだったのではないか。19世紀産業革命以降の目覚しい発展を遂げた科学は、たかだか200年くらいの話しである。
オカルトから科学へ遷移ということであれば、コナン・ドイルのシャーロックホームズが活躍した頃が境目だったように思う。以後、世は科学万能主義になった。
オカルトというのは西洋の言葉だが、ここでは日本のことを記載する。
近年歴史ブームで、戦国時代の武将を描いたコンテンツが受けているが、これは室町時代から安土桃山時代、つまり、1500~1600年頃の生き様に魅了されたものだ。その頃はまだ、神や仏が存在し信じられていた。
もっと遡ろう。
日本民族のルーツはどこにあり、当時の日本人は何を信じ、何を考え、生きていたのか。
日本の正史は、”古事記””日本書紀”ということになっている。ただ残念なことに、6世紀の聖徳太子のところまでは辿れるのだが、それ以前は記載が曖昧で裏がとれない。いわゆる、3~5世紀の頃のことは、よく分からないのだ。
これが古代史ミステリーということになる。
卑弥呼の邪馬台国はどこにあるのか論争がずっと続くのは、はっきりした記載がないからである。
卑弥呼という呼称は、”古事記””日本書紀”には出てこない。これは、魏志倭人伝という魏の文書に書かれているだけである。魏とは、三国志で有名な、曹操が治めた魏のことである。卑弥呼の卑という字は、いやしいという字だが、昔は尊いという意味があるという説がある。
それ以上、昔に遡るとなると、神話の世界に入る。神道の伝承になり、イザナギ・イザナミを祖神として、三貴子である天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツキヨミノミコト)、須佐之男命(ソサノオノミコト)ということになる。初代天皇である神武天皇がその系譜を継ぐ。
日本の天皇、皇室は連綿と2000年以上続き、それはある意味、日本人のルーツでもある。これは世界でも類をみないものだ。世界に冠たる伝統文化といってもいい。大いに自慢し、誇りにしたい。
小生などは神社を参拝すると、厳かな神域に、心は澄みわたり和む。鬱蒼とした杉や檜に囲まれて、相当フィトンチッドが出ているのは間違いないが・・・
正史に残る聖徳太子の時代はどんな時代だったのか?
神道が日本人の主軸にあった頃である。神道とは森羅万象に神が宿り、まさに八百万の神である。木や岩に神が宿り、山が神であった。
今でも田舎の方に行くと、だだっ広い田んぼの中に、ぽつんと鳥居だけあって、まわりに神社もない。だが、よくみると、鳥居越しに見える山が神様なのである。
日本人ほど、季節の変化に敏感で、自然を愛でる気質があるのは、神道の影響が少なからずあるのではと思うのである。もうDNAに組み込まれているのか?!
つい最近のニュースで、出雲大社が60年ぶりに本殿遷座祭を実施し、「神様の引っ越し」というのがあった。伊勢神宮に並ぶ由緒ある神社である。御神体は見せられないので、白い絹垣に包まれていた。
それほど、神聖なものなのだ。
神道には、呪術がある。平安時代に入って陰陽師が活躍するようになるが、ほぼ流れを汲んでいると思われる。呪術といっても、呪うとか恨むとかではない。呪術とは、吉凶を占い、五穀豊穣を祈願し、病から救うものである。
これが古代のオカルトなのである。オカルトとは、神の啓示ということだろう。
シャーマンがいるのは、神の啓示を聞くためである。
最後にオカルトらしいものを、ひとつ。
磐座(いわくら)信仰なるものがある。これは、山の上の方で、岩が重なりあった奇石奇岩群への信仰のことだ。どうすれば、そんな奇怪な形になるんだというものである。それらは、とても人力では運べないような大きさと重さである。ここに神が宿るとして、信仰の対象になった。
学者は自然現象だというが、本当に? 昔は、なにか得体の知れない神力があったのかもしれない・・・