食べ物に対しての態度はその人の人間性を表すと思う。ビュッフェで食べきれない程、皿に盛って平気で食べ残したまま、テーブルを去る人。そういう人がいるだけで、その場の空気が悪くなる。
レストランで食事をし、食べきれない量であった場合に持ち帰りを頼む人は、食べ物への敬意も、またレストランに対しても食べ物を残さない良いお客さんになると思う。
何もそれは外食に限ったことでなく、いつも思うことは米粒を出来れば一粒も残さずに炊飯器からごはんをよそいたい。ごはん茶碗に一粒も残さず食べるのは言うに及ばず、炊飯器のお釜も米粒を残さない綺麗なままで洗うのが理想中の理想。
ニューヨークの日本食料品店で買う米は、カリフォルニア米で日本の米にかなり近い。外国に暮らしながらごはんを主食に生きている。ほぼ、毎日食べていると思う。
鍋で米を炊く際、どうしても鍋に米粒がついてしまい、なるべく残さずにお茶碗によそうようにはしていても、なかなかごはん粒が言う事を聞いてくれず、お鍋にへばりついたまま洗い流されることがある。その時、ごはんに対して申し訳なくなる。そして、ある言葉が浮かぶ。
無念である。
この米の誕生から最後までを考えてみた。カリフォルニアで農業従事者に田植えから刈り入れまでされて、米として売り出される。業者に渡りパック詰めされカリフォルニアからニューヨークへの旅に出る。日本食料品店に米は場所を移し店員さんに値札シールを貼られ店頭に綺麗に並べられる。ニューヨークで買い手がついて買い物かごに入れられ、米はレジでレジ打ちされて購入者宅に行く。そしてようやく、米からごはんへと炊飯される。
ここまで大勢の人の手に渡ったお米物語。それなのに最終的に人の口に入らずに、シンクの暗い排水溝に流されて行く米粒はあまりにも悲しすぎないか?
ごはんは残さず食べましょう!とはよく言われたことだが、お米物語の起承転結で、その”結”が、長い長い行程を経て、何人もの人に携わって、結局、米からごはんになり廃棄されるのって、やはり無念だ。
日本人の主食、お米を大切にすれば自動的に食に対して無駄はなくなる筈だ。
お米物語の最終章はハッピーエンドで終わりたい。
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