気丈な彼女が「近くに」と……不吉な予感に怯える貴公子
宇治の中の君と結ばれたのもつかの間、お忍び歩きを禁じられ宮中に閉じ込められた匂宮。自由にならない身の上のモヤモヤを、手近な女房で憂さ晴らしするのが関の山です。
そんな事になっているとは知らない宇治では「見捨てられた」と落胆。特に大君は「匂宮はやはりただの遊び人。可愛い妹にこんな不幸な結婚をさせてしまった」と後悔し、物も食べられなくなるほど衰弱してしまいました。あーあ。知らせを聞いた薫は慌てて宇治へ行き、泊まり込んでの看病を始めます。
翌朝「少しは良くなりましたか。せめて昨日くらいにはお話したい」と薫。大君は「しばらくこんな調子だったせいか、今日はとても苦しいのですが、こちらに」。
警戒心むき出しで薫を寄せ付けなかった頃とは打って変わって、近くへ来ていいと言う彼女に、薫は言いようのない不安を感じます。
どんな風に苦しいのか、以前よりは心を開いてくれていると感じるのに、このままどんどん悪くなったらどうしよう。やはりこの山荘ではお世話も大変だから、近いうちにどこか別なところで療養しようと、そばについてあれこれと話しかけます。
大君は薫の話に、弱々しく「苦しくてとてもお返事できません。もう少し良くなったら……」。不吉な予感に胸も潰れそうですが、薫は阿闍梨に祈祷を任せて一旦帰京します。
ベッドトークが噂に……身近なところからの情報漏れで大ショック
さて、薫のお供のひとりが、主人について宇治に通ううち、こちらの若い女房といい仲になっていました。恋人との久々の再会に、うっかりこんな情報を漏らします。
「匂宮さまは外出禁止令が出て宮中に閉じ込められていらっしゃる。それに、いよいよ夕霧のお大臣の六の君との結婚が本決まりらしい。前々から打診されていた件だし、どうやら年内にも婚儀があるらしいぜ。
当の宮さまは不本意で、宮中で女房がたに手を出すことばかりご熱心だそうだが。きかん坊で、帝や中宮が何度ご注意しても収まりゃしない。
うちの殿は普通の男とは違っていて、あまりに聖人君子すぎるからか、おかしなほど浮いた話もないんだが……。そんな方がこちらの山荘に心を砕いて、足繁くお出でになるのは本当に驚きだって、皆言ってる」。
うかつにも、この女房は彼の話を言いふらしてしまいました。女房たちのヒソヒソ話を耳に挟んだ中の君はもう大ショック。
「やっぱり私とのことは、そんなご立派な方との正式なご縁が結ばれるまでの、ひとときの気の迷いだったのね。薫の君への手前、お手紙ではお義理で“愛している”などと仰るだけなんだわ……」と、身の置きどころもなく、ぐったりと倒れ伏してしまいます。本当にここの女房はレベルが低いと言うか、何というか。
この情報は病の大君には致命的でした。「もう何もかもおしまいだわ。これ以上、生きてなどいたくない」。それでも女房たちには悟られまいと、素知らぬフリで妹のそばで横になります。
腕枕をしてうたた寝をしている妹の可憐な横顔。豊かな長い髪が肩のあたりにたまっている様子。それが愛おしいと思うにつけても、父の遺誡が繰り返し思い出されます。
「お父様。今どちらにいらっしゃるの。きっと地獄にはいらっしゃらないと思うけれど、どこでも構いません。お父様のところへ行きたい。こんな辛い目に遭っているわたし達を置いて、夢にも出てきてくださらないなんて……」。
眠る妹のそばで、姉はそんなことばかりを思い続けます。
「心配そうなお顔で……」昼寝の夢に現れた父の姿
夕方になり、激しい時雨の降る音で中の君は目覚めました。「お父様の夢を見たの」。山吹重ねに薄紫色など明るい色めの衣に、起き抜けの頬はぽっと赤くなって、とても思い悩んでいる人とは思えない可愛らしさです。
「お父様が心配そうなお顔で……ちょうどこのあたりにいらっしゃったわ」。それを聞いて、姉は一層悲しくなりました。
「いいわね。私もお父様にお会いしたい、夢ででもいいからってずっと思っているのに。私のところには少しもお出でくださらないのよ」。姉妹は父恋しさに激しく泣きます。
華やかな色をまとう妹とは対照的に、大君は白い衣を身につけ、長く梳かさないままの髪も無造作に流したまま。しかしその髪はもつれることもなく綺麗に揃い、青白い顔はかえって優美さを増したようです。
「私が最近、お父様のことばかり考えているからかも。そのうちお姿を見せてくださるかしら。なんとかしてお父様のところへ行きたい。もうこれ以上の罪作りな事をしないうちに……」。
昔の中国にあったという、死人の魂を呼び戻す反魂香(はんごんこう)というお香があればいいのにと、取り残された心細い姉妹はそんなことまで考えます。そもそも、お父さんがもうちょっとちゃんとした遺言をしてくれていたら、こんなことにはならなかったのに……。
「美辞麗句ばかり」と姉は批判……皇子に迫る結婚の期限
すっかり暗くなった頃、匂宮の使いが手紙を持ってきました。六の君との結婚話を聞いたばかりとあって、中の君はすぐに手紙を見ようとしません。
でも大君は「やはり、いつもどおりお返事するのがいいわ。もし私に何かあったら、この方よりもあなたをひどい目に遭わせる男が現れるとも限らない。
たとえ時々でも、宮さまが通って下さるうちは、誰もあなたに手出しはしないでしょう。辛いけれど、今はご縁にすがるしかないわ」。
「お姉さままで私を置いてきぼりになさるおつもりなんて、ひどい」。中の君は怒って顔を引っ込めてしまいます。
「天が定めた寿命があるのですもの。お父様が亡くなられた時はもう生きていられないと思ったから、よくぞ生きながらえたと思っている位よ。明日のことはわからないけど、この世の気がかりと言えば、あなたのことだけなのよ」。
といい、姉は灯火を寄せて宮の手紙を読みました。いつものようにこまごまと優しい言葉が連ねてあります。「ながむるは同じ雲井をいかなれば おぼつかなさを添ふる時雨ぞ」。あなたと同じく時雨の空を眺めながら、逢いたい気持ちをつのらせていますよとあります。
調子のいいことばかり書いて、これもお義理で書いてくださっているだけなんだわと、大君は怒りがこみ上げます。それでも中の君は時間が経つほどに恋しく「あんなにまで誓ってくださったのだから、これきりで終わりということはない」と考え直す気になるのでした。不思議ですが、恋愛中だからこそ信じたいんですよね。
中の君がようやく書いた「あられ降る深山の里は朝夕に ながむる空もかきくらしつつ」という返事が宮の元へ届いたのは、10月の末日でした。
逢えなくなってもう一ヶ月。どうにか今夜こそは宇治へ行こう、行こうとしますが、いろいろ邪魔が入ったり、あるいは宮中でのイベントなどが多くて騒がしく、バタバタしている間にも月日が経っていきます。女房に手を出すことはあれど、中の君への気持ちは薄れません。
六の君との縁組を年内に、と考える中宮は再三「まずはきちんとした正妻をお持ちになり、その上で好きな人をこちらに」と繰り返しますが、宮は「もうちょっと待ってください。私にも考えがあります」と最後の抵抗。しかしこれも、儚い時間稼ぎに過ぎません。
このまま押し切られて六の君と結婚したら、中の君はどうするんだ。しかしこのままでは本当にそうなってしまうと、頭を抱えて悩む宮、孤立無援。それもそのはず、いつも助け舟を出してくれる薫さえも、今回ばかりは宮と距離を置いていたからです。
「良くなったから」見込みのない彼女がついた悲しい嘘
中宮の勢いにさすがの宮も折れそうだと聞いた薫は「なんだ、本当にその程度だったんだな」と軽蔑。「もうちょっと実のある方だと思っていた。だから中の君との縁組も勧めたのに」と、見限る気持ちが出てきていました。
大君の容態は常に気にかけていましたが、11月に入って小康状態だと聞き安心。公務の忙しさに取り紛れて5~6日連絡なし、ということもあり、それを埋め合わせるように、用事を放り出してまた宇治入りします。良くなったからと阿闍梨も山寺に帰したらしく、初冬の山荘内はいっそう人少なで寂しげな様子です。
弁の報告によると「どこが痛いというわけでもなく、大きな病気とも思えませんが、とにかくお食事がすすみません。
もともと病弱な体質でいらっしゃいましたが、匂宮さまの件でひどくお悩みになり、そこからちょっとした果物などもお召し上がりにならなくなって……。もうご快復の見込みはないように拝見します。
長生きして悲しい目を見る前に、この老人が先にと、そればかり思っておるのでございます」。
良くなったというのは安心させるための嘘だったのです。よくある嘘ですが、薫はそれを真に受けてしまった自分を呪いました。
「どうして早くそれを教えてくれなかったんだ!!宮中にも、冷泉院の方にもやたらと呼ばれて忙しかったものだから、少し良いと聞いて安心して、ここ数日は連絡もしなかったのに……」。
薫は慌てて僧侶たちを呼び戻し、大君の枕辺に駆けつけます。しかし彼女は、もう声も出ないほどの重体でした。
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