前2回の文学編に引き続き、今月末で著作権保護期間が満了する美術の分野に足跡を残した先人たちを紹介します。
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その1【文学・前編】
http://getnews.jp/archives/1281242 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その2【文学・後編】
http://getnews.jp/archives/1282693 [リンク]
藤田隆治(1907-1965、代表作『氷上ホッケー』)
1907年(明治40年)、山口県豊浦郡豊北町(現在の下関市)に生まれる。新文展入選で頭角を現し、1934年(昭和9年)に新日本画研究会の創設に参加した。1936年(昭和11年)に開催されたベルリンオリンピックで開催された芸術競技の絵画部門に出展した『氷上ホッケー』で銅メダルを獲得。同大会では藤田の他に、鈴木朱雀(1891-1972)がデッサン素描部門に出展した『古典的競馬』も銅メダルを獲得している。オリンピック芸術競技は近代オリンピック創設者のピエール・ド・クーベルタン男爵が提唱したもので、1912年のストックホルムオリンピックから開催されていた。しかし、客観的な採点の困難さもあるためか1948年のロンドンオリンピック(日本は制裁のため不参加)での実施を最後に廃止されている。
1944年(昭和19年)に従軍画家として応召、戦地では先に派遣されていた藤田嗣治(1886-1968)とスケッチの交換を行っている。復員後、事故死した弟の遺族を養育するため八幡(現在の北九州市)へ転居した。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、かつての芸術競技に代わり公開形式の文化プログラムとして開催された芸術展示にメダリストとして招待されている。
1965年(昭和40年)1月22日逝去。57歳没。銅メダルを獲得した『氷上ホッケー』は大会主催者のナチス・ドイツ政府が買い上げたが、現在は所在不明となっている。
杉浦非水(1876-1965、代表作『三越呉服店春の新柄陳列会』『地下鉄開通』)
1876年(明治9年)、愛媛県松山市に生まれる。初めは日本画家を志していたが、東京美術学校日本画選科在学中に黒田清輝の指導を受けて(当時は「図案」と呼ばれていた)デザイン画を志すようになる。旧制中学教員などを経て1908年(明治41年)に三越呉服店嘱託(後に図案部主任)となり、広報紙『みつこしタイムス』の表紙画やセールのポスター画を手掛けた。この時期の代表作として、1914年(大正3年)の『三越呉服店春の新柄陳列会』がある。
1922年(大正11年)から3年間のヨーロッパ留学では、アルフォンス・ミュシャのポスター画に接して強い感銘を受ける。帰国後はデザイン画研究組織『七人会』の発足に参加し、中心メンバーとして活動した。この時期には、東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)開業を告知する『地下鉄開通』のポスターや大蔵省専売局(現在の日本たばこ産業の前身)からの依頼による『響』『日光』『桃山』などのパッケージデザインを手掛けている。杉浦によるこれらの作品群は後年、日本におけるグラフィックデザインという分野を確立したものと評されている。
1929年(昭和4年)からは帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)工芸図案科長を務めていたが、1935年(昭和10年)に発生した同盟休校事件の責任を取って辞職し新たに多摩帝国美術学校を設立、初代校長に就任した。1965年8月18日、老衰のため神奈川県藤沢市の自宅で逝去。89歳没。
川西英(1894-1965、代表作『神戸百景』)
本名は川西英雄。1894年(明治27年)、神戸市兵庫区に生まれる。家業の回船問屋を継いだ後、郵便局長となるが山本鼎(1882-1946)の版画に感銘を受けて木版画の製作を始める。
1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)に発表した連作『神戸百景』を始め、故郷の神戸を題材に往来する人々の姿まで活き活きと描写した風景画を数多く作成し、1949年(昭和24年)に兵庫県文化賞を受賞した。それらの作品群は1952年(昭和27年)から翌1953年(昭和28年)にかけて発表された続編の『新・神戸百景』と合わせ、1962年(昭和37年)に画集『神戸百景』として刊行されている。
1965年(昭和40年)逝去。70歳没。三男の川西祐三郎も版画家である。
樺島勝一(1888-1965、代表作『正チャンの冒険』『浮かぶ飛行島』)
本名は椛島勝一。1888年(明治21年)、長崎県北高来郡(現在の諫早市)に生まれる。絵画について専門的な教育を受けた経験は無く、独学で国内外の文献を読み漁って習得した細密なタッチのペン画で講談社『少年倶楽部』を始めとする少年誌に海野十三や南洋一郎らが執筆した冒険小説の挿絵を手掛けた。特に船のイラストは帆船から戦艦まで幅広く秀作を残したことから“船の樺島”の異名を取っている。
一方では「東風人」のペンネームにより、織田小星(織田信恒子爵)原作の4コマ漫画『正チャンの冒険』を朝日新聞と『アサヒグラフ』に並行連載した。連載当時、同作の主人公・正チャンが作中でかぶっている毛糸の帽子が「正チャン帽」と呼ばれて大流行したり、天津乙女の主演により宝塚歌劇で上演されるなどの社会現象を巻き起こしたことから「日本初のキャラクター漫画」と評されている。
戦後は細密なタッチを崩すことなく軍事色の強い題材からロケットや未来都市などの題材へスライドし、レトロフューチャーの第一人者と評されている。1962年(昭和37年)に文藝春秋賞、1963年(昭和38年)に小学館絵画賞を受賞。
1965年(昭和40年)5月31日逝去。77歳没。なお、代表作の『正チャンの冒険』は原作者が1967年(昭和42年)没のため来年以降も著作権が存続するのを始め、小説作品の挿絵についても南洋一郎など原作者の著作権が存続するものがある。
(その4につづく)
画像‥川西英プロフィール(神戸市公式サイト内『川西英 神戸百景』より)
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/hyakkei/profile/ [リンク]