朝日新聞の誤報謝罪の報道があった9月13日から、1カ月近くが経った。これに関する朝日新聞社の対応について、学者や評論家の立場にはない一般読者として、自分なりの感覚で考察してみたい。
まず、9月13日の朝刊では、東電福島第一原発と慰安婦の報道に誤りがあったとして、記事を取り消し謝罪する内容の木村社長の会見、及び社説、天声人語でもこれに関連した記事を掲載した。木村社長の会見では、「報道部門の責任者である編集担当取締役の職を解く」、「木村社長も道筋をつけた上で、進退を決める」、「その間の社長報酬は全額カットする」と言っていた。しかし、「謝罪する必要はない」と言ってきた木村社長に、道筋をつけられる道理があるとは到底思えない。担当取締役一人を解職し、社長報酬をカットした程度で済む話なのか。まして、これまでの様々な不祥事に対して、責任の所在と関係者の処分を厳しく追及してきたのは、当の朝日新聞をはじめとする報道機関ではなかったのか。というのがその時の感想である。
また、社説や天声人語では、「論じ続ける責務」、「言論の一役を担っていく」という、責務を果たすことが責任の取り方であるような表現であった。報道機関、言論機関として当然の責務ではあろう。ただ、これにしてもその時に言うべきことではなく、今回の事件の説明責任を果たし、処分を決定したうえですべき話である。天声人語に至っては、この場に及んで「言論の自由」を唱える無神経さだ。「言論の自由」「報道の自由」ということが、朝日新聞にとって主義主張のためなら、何を言っても「自由」と勝手に解釈し、権利と義務を混同した「無責任主義」が、今回の事件の最大の原因ではなかったのかと私は思う。
18日付では「声」の欄を謝罪に関する特集として載せていたが、千通を超える「声」に対して、10人程度とはあまりにも少なすぎる。それも1回限りで、都合の悪い声は載せませんでしたと断っているようなものである。広告を省いてでも、数日間は数多く掲載すべきである。当然、減収になった分は、役員報酬及び社員の給与カットで対応すべきであり、こういったことが過ちに対するせめてもの償いではないか。
こうした中で、9月26日に「吉田調書」報道記事問題についての申入書が、弁護士の連名で朝日新聞社宛に提出されたという。朝日新聞に堂々と掲載されていた。申立書では、原発事故の報道については、解釈、評価の問題であり、「大枠で一致している」、「重い処分は記者を委縮させる結果をもたらす」という。法曹界では、そんな理屈が当たり前なのだろうか。事実の情報をどのように解釈するかということは、読者側の立場であり、「事実」と「解釈、評価」を混同しているのではないか。マスコミにとっても、報道と論評とは異なる話ではないのかと思う。「記者を委縮させる」なんてことは、特に朝日新聞の記者には心配ご無用でしょう。あまり反省もしていないようだし。ただ、今回の事件はあくまでも朝日新聞が加害者であって、被害者と入れ替えるような言葉は受け入れがたい。是は是、非は非と認めるべきである。厳重な処分を求める意見が多くあることも、忘れないでいただきたい。
10月3日の朝刊では、慰安婦報道について検証する第三者委員会を立ち上げたという。記事の妥当性や影響を検証し、具体的な提言を盛り込んだ報告をまとめてもらうとしている。妥当でなかったから謝罪したのではなかったのか。これまでの朝日新聞の対応は、あまりにも罪と罰を軽々しく考えていると言わざるを得ない。今後、朝日新聞社がどのように償っていくのか、その責任と処分については、朝日新聞の自浄能力と、同業他社の追及する力量も問われていると考える。
朝日新聞は本当に反省しているか
by mkw59
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新聞(特に朝日新聞)のコラム(天声人語など)や社説の批評をしてみたいと思います。