これは海外留学経験もなく、学生時代に起業を試みたわけでも無い、
ごくごく平凡な家庭に育った、ごくごく普通の青年が、
ちょっとだけ勇気を振り絞ったときの物語です。
※画像はイメージです。
僕のことを、簡単に。
僕は、現在26歳。社会人4年目だ。
4年間の社会人歴のうち、最初の2年と3ヶ月で会社を2度辞め、
社会のレールから飛び降り、フリーター生活を8カ月ほど過ごしてきた。
そんな僕が半年前、3度目の転職で、大手広告会社を含む5社から内定を貰うことができた。
そして、それは全てどこに行っても良いというレベルの満足度の高い結果だった。
しかも、学生時代の就職活動では叶わなかった夢の大手広告会社からの内定。
3年越しの夢がようやく叶ったのだ。
※正確に言えば、大手広告会社2社のうち、1社は内定を貰い、もう1社はほぼ内定というところまできて辞退した。噂によれば、「もう間違いなく内定でしょ。」という話だったので、ここでは内定を貰ったとカウントしている。
僕の夢はここで終わりではないよ!と自分自身にも言い聞かせている。
最後に書かせてもらうけど、僕はこの会社で定年まで働くつもりはない。夢の続きがまだまだあるのだー。
なぜ、僕は会社を2年と3カ月で辞めたのか?
今振り返ってみるとそれは、「モラトリアム」の時期にあったからだと思う。
モラトリアムとは、心理学者のE.H.エリクソンが提唱した概念で
「青年が社会で一定の役割を引き受けるようになるまでの猶予期間」のこと。
いわば、「自分探し」みたいなものだ。
本来は、一般的な大学生が過ごす時期(18~22歳)を指すそうだけど、
僕は、普通の人よりもモラトリアムが長かったのかもしれない。
僕は、本当の自分とはなんだろう?とずうーっと漂流していたのだと思う。
でも、この2社にいる間に、色んな人や本に出会う中で、自分自身に改めて向き合い、価値観が大きく変わった。(価値観の変化については後でお話しする。)
そんな会社を転々とする僕に、
「石の上にも3年」というだろ。
「そんなにコロコロ会社を変えて、これから大丈夫か」あと何十年、サラリーマン生活があると思ってんだ。お前らの世代は定年なんてあってないようなもんかもしれんぞ!」
とか、
皆さんには、「甘い」なこの若造はと思われるかも知れないけれど、
自分自身のことは自分が一番良く考えているから大丈夫。
と言いたい。
自分が望んだ場所や仕事ではないところで、仮に3年我慢して頑張ってみたとしても、
そこで何かが見つかるとも限らない。
もし仮に、後で後悔したとしたら、それはかなりの「機会損失」になるかもしれない。
その3年間はもう返ってこない。
だったら、「こうしたい」と思った時に、行動した方が得るものは大きいと僕は思う。
それが、その時点では仮に失敗と思えたとしても。
当たり前だけど、結局、僕の人生は他の誰かが責任をとってくれるわけではないわけで。
自分の中で色んなシュチュエーションを想定してみた。
そのうえでの行動だから、2年と3ヶ月で会社を2度辞めたことは全く後悔していない。
付け加えていうとフリーター生活を8カ月ほど過ごしてきたことも。
逆に、あのとき行動に移さなかった方が、きっと今頃後悔していたと思う。
生意気ながら、僕はそう考えて行動してきた。
就職活動のときの話。
学生時代の就職活動では、広告会社を中心としたマスコミ関係を受けていた。
なかでも、行きたかったのは電通や博報堂などの大手広告会社。
昔からテレビやCMを観ることが好きだったし、コピーライターの糸井重里さんに憧れていたりなんかもした。
結果的には、50社ほど受けて(エントリーシート提出含め)中堅広告会社の1社しか受からなかった。だから、お世話になった一社目には申し訳ないけど、不本意ではあったもののそのまま入社することにした。
(ちなみに、大手広告会社はエントリーシートすら通らなかった。。)
当時の僕は、なかなか内定を貰えなかったので、周りの皆が早々と就職先が決まっていくなかで、
自分だけ取り残されるのをとても恐れていたのかもしれない。
例えば、就職浪人するとか、大学院に行くという選択肢もあったのだろうけど、ただただ皆と同じレールを走ることで安心感を得たかったのだろう。
今こうして振り返ると、あの時の自分に
「全くそんなこと恐れる必要ないよ!」
と声を掛けてあげたくなるんだけど。
でも、この時一つだけ胸に誓ったことがある。
「いづれ絶対、憧れの大手広告会社に入社してやる!」
一社目はとても充実していた。
これは、僕が唯一内定を貰った広告会社に在籍していた22~24歳のときのお話。
入社した中堅広告会社では、同期や先輩方にも恵まれた。
仕事終わりには、毎日のようにご飯や飲みに誘ってくれて可愛がってくれた先輩。
仕事でミスをしても怒らず、おいしいお店にたくさん連れていってくれた直属の上司。
週に2,3日はランチを共にし、プライベートでも仲の良かった同期。
毎週金曜日には、六本木のクラブで一緒にバカをしてくれる後輩。笑
本当に良い人達ばかりに囲まれて、環境的にも仕事的にも申し分なかった。
入社して1年経った頃には、就職活動のときの悔しさなど消えていた。
「この会社で骨を埋めても良い。」
そう思った程だ。
本当に楽しかった。
とある人と、とある本に出会うまでは。。
僕が、変わり始めた。
ここからは、僕の価値観や考え方が変わり始めた入社2年目24歳ぐらいのお話し。
大手広告会社を1年半で辞めた男
入社して一年ぐらいたった頃だろうか。
同業他社の同世代で飲み会が行われたので、僕も参加することになった。いつもは、中堅レベルの広告会社の同期が集まって飲むことが多いのだけど、この日はどうやら違った様子で、見慣れない顔がちらほらいた。
話を聞くと、大手広告会社の連中が結構いるらしい。
「ちくしょー!」
就職活動で、失敗したときのことが頭によぎり、心の中でそう叫んだ。
なんかどことなく、大手の人は、僕ら中堅広告会社の連中を見下しているような感じをした
(僕だけかも知れない。)けど、一人だけ、やたらとフレンドリーでノリの良い奴がいた。
T・S君というのだが、彼とはやけに気が合い、飲み会の最後には握手をして別れたのを覚えている。
確かその半年後だったか、彼はブログで「博報堂を辞めました」という電撃的な発表をした。
僕は、寝ぼけながらにその記事を読んだ記憶があるが、三度見ぐらいして目を覚ました記憶がある。
「まじかー、あの大手広告会社を1年半で辞めるとは!」
「同世代で、そんなことする奴いるんや。。。!!!」
どうやら彼は、大手広告会社を辞め、フリーランスになる決意をしたらしい。
大企業という「肩書」や「安定」よりも、「自由」や「やりがい」を選んだようだった。
僕は、親から散々「良い大学を出て(僕はそんな誇れるような大学出ではないけれど。)、良い企業(僕は、そんな誇れるような企業に就いてないけれど。)に入れば一生安泰。」と言われ続けてきた。
たぶん、そう考えるのが世の「常識」なのだろう。
そんな僕には、衝撃的だった。ちょっとパニックになった。
「アンビリーバブル!!」
この時期らへんに出会った運命の2冊。
・金持ち父さん貧乏父さんーロバートキヨサキ
金持ち父さん貧乏父さん [単行本]
ロバート キヨサキ
筑摩書房
2000-11-09
たまたま本屋で出会った本。
「経済的自由になるには」みたいなことが書かれていて、当時の僕には小難しく感じられたけど、
「サラリーマン以外にも生きていく方法なんていっぱいあるのか。」
と、視野が広がったのを覚えている。
・自分の中に毒を持てー岡本太郎
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか [単行本]
岡本 太郎
青春出版社
2002-01
「安全な道をとるか、危険な道をとるか。」
岡本太郎「危険な道をとる。」
岡本太郎のこの言葉は今でも忘れない。ビビッときた。
この2冊との出会いによって、僕の考え方は更に変わった気がする。
「世の中、サラリーマンだけが全てじゃない。」
他にも、いくつもの要素が重なりあった。
ちょうどそんな頃、父が定年退職をした。 そして、老後のコトや死ぬ間際のことを良く口にするようになった。
父「死ぬ前に、世界遺産を全部見たい。」
僕「そりゃ、さすがに無理っしょ。。」
父「死ぬ前に、孫が見たい。」
僕「確かに。。」
そんな感じで、父にとってそう遠くはないであろう「死」という言葉を良く聞かされた。
それから父は今まで以上に趣味の写真やビデオ撮影に没頭し、WEBサイトを作って写真をアップしたり、Youtubeに動画をアップするようになった。
また、読書、ビデオ鑑賞を寝る間も惜しんでしているようだった。
僕「それじゃ、余計早死にするよ。」
父「・・・。」
そんな父を見ているうちに、僕も自分の人生全般について考えるようになり、どんな老後、もっというと人間は100%直面する「死」という問題について真剣に向き合うようになった。
僕
「人間、いつ死ぬか分からない。やっぱり、今出来るコト・やりたいことは今やろう。」
僕は、僕の道を歩むことにした。
入社して一年半ぐらいが経って、仕事にも慣れ、裁量も多くなった。
仕事も楽しくなってきたし、社内外の人間関係やプライベートにおいても、ほとんど不満などなかった。
でも、何か物足りなさを感じていた。
僕
「今の環境もすごく充実しているし、楽しいし、何も言うことはない。ただ、この先ずーっとこの会社で働いて定年を迎え、ゲートボールとかして老後生活を送っていくのかな。それも悪くないけど、やっぱり、何か自分の名前が残るような仕事や功績を残したいな。」
そんな想いがふと沸き上がってくるのを感じた。
こう思うようになったのは、上にあったように
■大手広告会社を1年半で辞めた男
■価値観を変えた運命の2冊
■父の定年退職
が深く関係していて、僕の中にあった常識を変えていったのだろう。
それに、僕は小学校~高校まで野球一筋で根っからの野球少年だった。
そして小さい頃からプロ野球選手になりたかった。
大の巨人ファンで、松井選手や高橋由伸選手が大好きだった。
僕のファン「AIRYMAN選手のファンなんです!!」
僕「なんて言われたいな~。」
って勝手な妄想を膨らまし、個がフューチャーされるプロ野球選手を羨望の目で見ていた。
その本質は、自分の名前で勝負できるような人物になりたいという、 願望であり、そうした価値観は幼少の頃から僕の中にインストールされていたからかもしれない。
そこから、「いづれは、自分の名前で勝負したい」という気持ちが芽生えたのだと思う。
もちろんサラリーマン生活は、安定しているし、それはそれで良いと思ったんだけど、このまま一生を終えるのが無性に怖くなった。
そんなとき、昔見たドラマの「3年B組金八先生」で坂本金八先生が、
金八先生「人は、死ぬのが怖く感じた時、大人になる。」
細部まではハッキリと覚えていないんだけど、このような言葉を思い出した。
24歳にしてようやく、大人にちょっとだけ近づいた気がした。
そうして、僕は新たな一歩を踏み出すことを決意したのだ。
後編につづく。