5月21日、JCEJが「大槌みらい新聞」から撤退することがサポーターへ通知された。撤退に至る経緯がフェイスブックのログから明らかにされ話題となっている。
JCEJと「大槌みらい新聞」とは?
東日本大震災により、東北には大きな被害がもたらされた。人命や財産のみではない。残された人々が生きていく上で必要な食料、職業、そして何よりも情報を伝達する媒体までが欠落してしまった。岩手東海新聞社は社員19人のうち記者2人が死亡。輪転機も水没。何よりも読者宅が被災して収入源が絶たれたため廃刊している。(その後は市の広報を請け負う形で、2011年6月より「復興釜石新聞」として再出発している)
「大槌みらい新聞」は、これに代わるものとして生まれた新聞だ。発行部数は5000部。住民に起点される復興の為の新しい情報媒体だ。
これを設立し、支援したのがJCEJ(日本ジャーナリスト教育センター)だ。撤退を表明した藤代裕之氏はその代表運営委員を務める。
一方で「大槌みらい新聞」の現地責任者および記者を務めるのが松本裕樹氏。地方新聞社に勤めていた経験を活かし、ノウハウや、新聞のつくり方を地元の方に教授。最初は、文章なんか書けない、写真なんか撮影できないとしり込みしていたお年よりも、ボランティアの学生らの手ほどきを受けて新聞作りに携わるようになっていった。その過程は「大槌みらい新聞」そのもので確認できる。復興の過程をありのままの姿として確認できる。それが「大槌みらい新聞」の最大限の特徴だろう。FacebookやWebサイト、ブログなどのソーシャルメディア、そして紙で発行されるこの新聞。資金はインターネットを通じて財源の提供や協力を呼びかけることで集められた。更にJCEJや運営委員の持ち出しにより賄われてきた。しかし、5月21日、突然にJCEJが「大槌みらい新聞」へのサポートから撤退する旨が通達された。以下は通知のメールの抜粋だ。
これまで大槌みらい新聞は、日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)が活動の支援を行ってきましたが、現地責任者との松本裕樹さんとの編集方針や方向性の相違があり、JCEJとして支援関係の解消を選択することになりました。
例えるとレストランの出資者と店長の間で方針に食い違いが生じたというような事態だ。更に、JCEJよってFacebook、メール、Twitterなどのアカウントが凍結されたという。撤退に至る経緯は現地責任者の松本裕樹氏が記録保持していたFacebookのログにより詳らかにされている。対話の内容を纏めてみた。
危機に至る経緯
まずは松本氏からの確認から。
松本裕樹)きょう15日午後、ポスティング会社のエリアマネージャー○○さんから、☓☓新聞と同額の1部当たり5円(消費税別!)の配布料を今月号から頂きたいと電話あり。今月号の配布は来週20、21日の予定とのことです
これに対して、藤代氏は
藤代裕之)確認ですが「ポスティング会社のおかげで配布してます」的な告知は今月号はやったんでしたっけ?やっていたら、それと整合性がとれないので、来月から支払うということにしてもらえるとありがたいなあと思うのですが。
と回答。その理由を述べている。
藤代裕之)どうしてもポスティング会社さんが今月号からお金が必要と言われた場合は、1面の表記を消去する(これは現実的には無理)、もしくは、来月号で何らかのコメントを掲載する必要があると思います。読者への説明は必要だと思います。今月は紙面では「協力で」と言いながら、お金を払っているというのは、「ウソをついている」状態になってしまいます。それは避けたいです。
これに対して、ほかの関係者が「どうしても今月からと言われれば仕方ないでしょうね。来月号で説明するしかないかと」とコメント。
藤代裕之)来月号で説明すると、ポスティング会社が「悪かった」ような捉え方をされる可能性もあります。それもちょっと心配はしています。「すでに新聞には協力で配布と書いてあるので実態と合わない。急だったので、来月からにしてもらえないか」とお願いするのが、一番いいと思ってます。
ここまでの流れでは松本氏やほかの関係者が支払いを優先する考えであるのに対して、藤代氏は「協力」(無報酬での協力)を標榜するポスティング会社からの代金の要求に応じることで、「協力」という看板と実態が外れてポスティング会社が「悪い」という捉え方をされる可能性を指摘している。これに対して、松本氏は
松本裕樹)ポスティング会社との安定的な関係継続もあり、5月号から払うことが最良だと私は思います。
と回答。そして、ポスティング会社から、他紙の業務を4月から有料で始めることにしたと聞かされ、その際に「みらい新聞」にもできたら支払いをしてほしいというニュアンスを言外に感じた、と切実な事情を打ち明けている。無料から有料への移行としても、格安に割引されているため「協力」と明記できる範囲内ではないだろうかと藤代氏に呼びかけ、なおかつ、これまでのクレジットの掲載位置は紙面片隅に移動することで譲歩しては、という旨を提案。先述の関係者も、支払いに同意を示す。しかし、藤代氏は
ポスティング会社側の事情、松本さんの気持ちは理解しました。が、それは読者とは無関係です。
と、「読者」を尊重。更にこのように続けた。
出金はJCEJの会計から実施するため、藤代の責任において行われますので、納得できないものを認めることはできません。
会計はJCEJから出資される以上、藤代氏の理解が必要だ。それは確かであろう。これはいきなりの切り札と言えよう。復興支援される側が支援者にこう言われては元も子もない。この先、「読者」に不誠実な印象を与える支払いを認めることはできないという藤代氏のスタンスは最後まで徹底される。ここで、先述とは異なる関係者から『今号は無料配布の継続をお願いし、来月からは正規料金を支払う方針に替えた上で「協力」のクレジットをなくしてはどうか』という提案がされる。
これに対して藤代氏は
今月は急な話なので、これまでと同じ(無料)でできないかお願い(確認)する→理由は紙面の説明と状況が違うのは読者にウソをつくから。「協力」=無料配布が、「協力」=2円割引というのは、読者にはまったく理解不能であること
という回答を先にしており、やはり「読者」を尊重。ポスティング会社に無料協力を確認(お願い)するよう松本氏に依頼している。また、藤代氏は自分の意見に対するコメントがないことを松本氏に指摘。Facebookのログに一部欠落があったため全文は明記されていないが、『割引を「協力」として読者が理解できる根拠』を示すよう求めたようだ。
この後は松本氏と藤代氏、関係者間の問答が続く。そこへ、新たな関係者がやはり『今月までは無料配送をお願いし、それが困難であれば今月号は支払いをして、読者には来月号でその旨を明らかにする』ことを提案。
ポスティング会社との協力関係を築いてきた松本さんならではの苦悩があるのではないでしょうか。
と、松本氏の意見を汲んだ上で、
それでもやはり読者ファースト(透明性確保)は貫くべきだと思います(まず最善を尽くす)。
藤代氏の姿勢にも理解を示している。ここで、突然に議論が停止する。
これ以上は、議論の必要はありません。意見の表明も必要ありません。誰がなんと言おうと私の考えは変わりませんし、JCEJの運営であろうが、学生であろうが、私の考えと違う場合は、JCEJからも、大槌みらい新聞から去ってください。大槌みらい新聞の運営責任は私にあります。
と藤代氏が表明。関係者に無料協力をお願いするよう指示を発する。
これに対して松本氏は「私に異論のあるものは立ち去れという考え方について皆さん、どう考えますか?私はもはや、付いていけませんね」「大槌みらい新聞編集部の町民レポーターの意見も聞いてみます」とコメント。
みらい新聞は藤代さんのものではありません
と、もっともな意見を述べている。
一方の藤代氏は
松本さんが、責任を、もって大槌みらい新聞を運営されていくなら、それはかまいませんよ。ただし、運営資金などはこれからご自身で対応ください。よろしくお願いします。ここまで色々おっしゃるのですから、松本さんにも覚悟がおありのことでしょう。松本さんがお辞めになるか、すべて引き取って頂くか、その判断は松本さんにお任せします。中途半端はありません。
これに対して、松本氏は
藤代さんが言われる「松本さんが、責任を、もって大槌みらい新聞を運営されていくなら、それはかまいませんよ」の「それ」ってなにを指しているのでしょうか?町民レポーターの意見を聞くことですか?
と確認。松本氏の問いは続いたが藤代氏からの回答は途絶している。
明かされている記録は以上となる。
支援とは何か?
これに対してSNSでの反応はさまざまだが、「議論の仕方が悪い」「支援者が独善的ではないか」「続けてほしいので円満解決を望む」という意見に大別される。
支援とは何か。力を貸して助けること、と辞書にはある。
復興は地元の企業の経済を助けることでもある。出資者がいつまでも経済を肩代わりする代わり、その土地の産業の芽を摘むことではない。お金を肩代わりすることは第一の段階。第二の段階は、その土地での働き手が生きていけるように支払いをし、経済がまわっていくように陰ながら手助けすることが必然となってくる。何よりもそれが地域の活性につながるのではないだろうか。この移行とポスティング会社の要求は自然な流れであるように思われるし、予測されるべき反応であったはずだ。何故その発芽をこうまで固く拒否するのであろうか。
遠方の都会で記事を読んでいる読者の目を優先するよりも、地元の企業に支払いしている旨を明示する。それが許されがたいことだと藤代氏に感じさせた責任は「読者」にあるのだろうか?
藤代氏の言葉に感じられる心情は「支援者」というよりも「投資者」そのものだ。被災地は、出資者が善意のイメージを他者に植え付けるためのコマーシャル産業の箱庭ではない。
いずれにしろ、「大槌みらい新聞」は地元住人に必要であろう。そして、それ以上に、「震災以後」の媒体として大きな使命を負っている。発行部数とは無関連に、これまでの新聞の概念を覆すという点でも画期的な新聞だ。
それは「ただ生きているということが既に大きな奇跡なんだ」という、震災以降取り戻された私たちの実感を記すものだ。「今日あったことを記す」だけでなく「100年後、1000年後の私たちから見た今日あったことを記す」という視点がそこにはある。記者という第三者ではなく「当事者が記者になる」という新しい姿勢を示してもいる。
「支援者」の無理解にめげず、これからも継続されるためにはどうしたらいいだろう? 真の「読者」として一考させられる出来事だ。
大槌みらい新聞
http://otsuchinews.net/ 【リンク】
大槌みらい新聞が3万5000円をきっかけに瓦解しかけてる件
http://matome.naver.jp/odai/2136920235688334901 【リンク】