犠牲者実名報道は使命感の押し売り

 

アルジェリアで起きた人質事件、犠牲者の氏名を非公表とした日本政府に対し、朝日新聞は翌日の朝刊で実名と写真を報道した。朝日新聞以外のメディアもそれに追随する形になった。このことが、議論を呼んでいる。今回の実名報道を肯定する人は「実名報道してこそ、この事件が歴史に刻まれる」「犠牲者に対する弔いとなる」などの考えを持っているようだが、私には疑問だ。

それは今回の実名報道が、約束破り、もっといえば裏切りの結果だといえるからだ。そしてその背景には、マスコミのおごりがあるようにも思える。

ひとくちに実名報道といっても、ケースは様々。対象者は被害者なのか加害者なのか、どんな事件なのか、対象者の親族・遺族の考えはどのようなものか…そのため実名報道の是非は個別に検討されるべきだろう。今回でいえば、対象者は武装勢力による人質事件の被害者である。実名報道がなされたあと、遺族側から抗議文が出たことから、遺族は実名報道に積極的ではなかったことがうかがえる。

そもそも日本政府が犠牲者氏名を公表しなかったのは、遺族や会社(日揮)との相談の上でのことだ。つまり、事件によって誰よりも悲しみを感じている人たちの意志だ。朝日新聞の記者は、ある遺族に対し「実名は公表しない」「遺族の許可なく記事にしない」と約束したという。政府の意向も遺族の意向も見事にスルーしている。約束を守っていない。嘘つきと言われても仕方がない。取材に協力してくれた遺族の気持ちを反故にしてまで実名報道することで、どんないいことがあるのだろうか。ないと思う。“マスゴミ”と言われ、取材に行けば「あんたのとこは約束破るでしょ?」と苦い顔をされ、自分たちの首をぎゅうぎゅうと締めるだけだ。

もしも私が犠牲者の妻であったなら、「天下の朝日新聞様が、悲しい死を遂げた夫の顔と名前を世間に公表してくれた。これで夫も少しは報われる。ありがたい」などとは思わない。おそらく連日連夜の取材攻勢に疲れ果て、「ほんと、もうほっといてくれ」と感じているに違いない。勝手に実名報道されれば、取材攻勢はいっそう強烈なものになるだろう。そんなのうんざりだ。「記者さんも大変なのだから、協力したい」と少しは思うのかもしれないが、おそらく限度はある。

記者たちも現地に入り、遺族を訪ね歩き、大変な思いをして得た情報なのであろう。それを形にし、世間に届けたいと思うだろう。そしてジャーナリズムは本来、権力を監視するもの。政府の決定いかんではなく、独立したメッセージを発信すべきと思っているのかもしれない。それは間違っていない。では、権力の監視は誰のためにするのか?それは、権力下にある人々を守るためだ。そういう意味では、今回の許可なき実名報道は、安らぐ人より傷つく人の方が多かったであろう“裏切り”でしかない。都合よくジャーナリズムの原則を振りかざすのは言い訳じみているし、使命感を押し売りされるのはまっぴらだ。

朝日新聞はじめ各メディアからは今のところ、実名報道批判に対する謝罪等はなされていない。実名報道云々という論争そのものは珍しいものではないので、「やり過ごしてしまえばこっちもの」と思っているのだろうか。そんな悠長さや余裕があるなら、実名報道そのものについてももう少し待てばよかったのに。

新聞社やテレビ局の人は、いい大学を出て、とても頭がいいのかもしれない。だから、自分たちの判断は最終的に正しく価値があると思えるのかもしれない。その判断を押し通すためなら、約束なんて破ってもいいのか。わかってくれない一般市民が悪いとでもいうのか。忘れてはいけないのは、世の中の9割以上は普通の人でできていること。その人たちの気持ちや価値観がわからなければ、人の上に立ってもどうしようもない。メディアの“中の人”たちには、過剰なエリート意識を持つ人が一定数含まれるのだろう。でもその人たちが思うほど、マスコミは尊敬も信頼も期待もされなくなってきている。頭がいいのに、なぜそれに気付かない。気付いている個人はいるのかもしれないが、組織としての方針にはそれが見えない。本当に頭がいいのかということさえ疑わしくなる。

遺族らとの約束を破ってまで実名報道に乗り切った理由。それが熟慮の末のことであり、その理由を胸張って言えるなら、速やか教えてほしい。理解を促す努力をせずに、使いまわして手垢のついた言葉で終わらせようとしているとしたら、言葉を使う職業人としてかっこ悪すぎると思うのだ。

 

 

 

ライター修行中です。 記事へのご意見など、いただけましたら光栄です。 よろしくお願い申し上げます。

ウェブサイト: http://tarubiyori.exblog.jp/

Twitter: @koolace723