キテレツ斎様が重要文化財のお堂を建立していた?!千葉県柏市の布施弁天の鐘楼

  by 松平 俊介  Tags :  

千葉県柏市の布施弁天・東海寺は関東三弁天の一つに数えられる古い寺院だが、そこには特異な形をした「鐘楼」(しょうろう)というお堂がある。このお堂、作ったのは江戸時代の名主飯塚伊賀七なのだが、この人物、なんとアニメ「キテレツ大百科」の主人公のご先祖、キテレツ斎様のような人物で、江戸時代に飛行機を製作、客は自作のからくり人形に出迎えさせていたという。藩主に飛行許可まで求めていたという飯塚伊賀七とはどういう人物なのだろうか?

奇抜な形のお堂、二年がかりで建築

このお堂は、発明家の「からくり伊賀」「つくばのダ・ヴィンチ」こと飯塚伊賀七(いいづか・いがしち)により文化15年(1818)に建立され、千葉県の重要文化財に指定されているのだが、その形はかなり変わっている。

「八角形の基礎の上に、十二角形に柱を建て、周囲に円形の縁を巡らし、その中央に鐘を吊り下げています。屋根は銅板葺きの入母屋造で、軒下には十二支などの彫刻が配置されています。下から八角形の基壇、円形の縁、十二角形に配置された柱という組み合わせとなっており、非常に独創的な形の建造物となっています。(千葉県教育委員会の重要文化財指定時の解説より)」

なぜ、このような建造物をからくり伊賀が作ったのかはよく分かっていないが、伊賀七はその頃、製作した飛行機の飛行許可を地元の谷田部藩主・細川長門守興徳に出し、細川に「将軍様のお城を上空から見るのは恐れ多い」という理不尽な理由で却下されている。有り余る才能がありながら、封建時代という制約のために自分の発明を世に問えなかった伊賀七の鬱屈した才能が、この特異なお堂を創りだしたのかもしれない。なお、飛行機は近所を回るときの自転車として改造されたという。そのかたわら、からくり人形を作り、細川に献上したり、自宅で客を出迎えさせたりしていたようだ。

ちなみに、この細川興徳は山田風太郎の『剣鬼喇嘛仏』、及びせがわまさきの漫画『山風短』の主人公、細川与五郎興秋の子孫である。細川家は代々短気で粗暴な、細川与五郎興秋のような人物が多く、細川興徳も放漫経営で財政破綻寸前だったといわれており、伊賀七の才能を理解できなかったのも無理は無い。

「からくり伊賀」はキテレツ斎様のモデル?

さて、このからくり伊賀こと飯塚伊賀七、冒頭に述べたように「キテレツ大百科」の「キテレツ斎様」こと木手奇天烈斎に事績がそっくりなのだ。

木手奇天烈斎は、アニメの設定だと江戸時代の発明家。リリエンタールのグライダーよりも前に飛行機を完成させ、幼くして亡くした息子をモデルにコロ助を作ったが、「世間を騒がせた」として捕まり、死ぬまで座敷牢に軟禁された。自分の発明を密かに『奇天烈大百科』として書き残し子孫に伝えたという人。(byウィキペディア)

で、飯塚伊賀七。飛行機を完成させたこと、からくり人形を作ったこと、息子を幼くしてなくした後でからくり人形制作をしていること、世間を騒がして処罰されたことはほぼ木手奇天烈斎と同一の事績。で、郷土の英雄として筑波研究学園都市で記念展が何度も行われている、と、いわゆる「完全に一致」レベルの事績があるのだった。

ここまで事績が似ている以上、あとは、飯塚伊賀七のことを「キテレツ大百科」の作者、藤子・F・不二雄氏がご存知であったという話があれば、この話は鉄板なのだが…こちらは再度調べないといけない。

いずれにせよ、からくり伊賀こと飯塚伊賀七なる、偉大な人物がこの地にいた事は、素晴らしいことではないだろうか?

※画像はウィキコモンズより引用

企業のニュースリリースライターを足掛け4年経験。現在はライターのみならずwebディレクターやテレビ番組の企画にも関わっている。タウン誌や飲食関係の媒体の制作にも携わる。 大学時代は書家や歴史作家について修行をしていたことも。(雅号:東龍) 地域の埋もれた歴史を掘り起こしたり、街歩きをするのが好き。これまで関わってきた雑誌は「散歩の達人」「週刊SPA!」、放送局では主に関東ローカルテレビ局の企画を担当。

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