【活動フォトギャラリー©️防衛省】
有利はそこでなにを見たのか?
大震災の瓦礫の下で救助を求めている人の声が聞こえた。
【筆者スクリーンショット©️フォトライブラリー】
「夫が、誰か夫を助けてください。」
ほつれた髪。何日も手入れすることさえできないでそのままにしてあるといった長髪の女性。モデルでもできそうな八頭身体型が陰りを見せるほど、顔に皺の目立つ疲れ切った表情をしていた。傍らで瓦礫をただ見つめる幼女の手を握りしめて、危なげな足元を支えている。
母が子供を支えているのではなく、子がこの母を支えているように有利には思えた。
その一角は特別危険指定区域にあった。
取材カメラを抱えて有利は市街を走り抜けていた。
交通網も止まり、断片的な情報ばかりで、右も左も分からない状態で、有利達はとにかく足と直感で情報を集めるしかなかった。
連日深夜2時に就寝し、朝は5時に目を覚ます生活。
それでも翌朝、瓦礫のそばで呆然と立ち尽くす被災者たちを目の当たりにすると、伝えなければ、その思いが体を突き動かしていた。
倒壊しかけた住居の中に、祖父の位牌を取りに入ったところだった。声をあげる間もなく、余震が、容赦なく人間を瓦礫の中に呑み込んでいった。
折り重なった鉄筋住宅の合間から砂塵と煙が巻き起こる現場で、本人を前にして有利は被災者の金切り声を聞いていた。
わずかだが、瓦礫の中に頭部が見えている。救助隊が瓦礫を撤去する作業に着手している時、有利は手にしたカメラでシャッターを切っていた。
三、四歳くらいだろうか、少女が、目を丸くしてこちらを振り返る。ためらいなくシャッターを押す手で、きられる光を浴びて少女は小首をかしげた。
有利は救助の合間に、手の空いた救助隊員を捕まえて話を聞く。
「意識は?」
煤まみれで頬についた砂の粒を腕でぬぐいながら救助隊員も「御苦労様です」と答える。
だが有利の走らせるペンを握る手はどこか震えていた。
取材の声を書き取りながら目を向けていた現場の光景が、有利を捉えて離さない。
幼女がお母さん、とつないだ手を引き、どうしたの?パパ、どうしたの?とキーの高い声で尋ねている。
だが母の手は少女の引く力にもぶらぶらと頼り無げに振り子運動を繰り返すだけで、少女の方を見ようともせず、ただ瓦礫を見つめて立ち尽くしたままだ。
通りすがりの他区域居住者が、なにも言わずすぐに瓦礫を持ち上げる輪に加わった。
NPOで活動しているボランティアの青年が立ち尽くしたままの女性に水を差し出した。
また同団体と思しき学生ボランティアが、膝を折って女の子に微笑みかけた。
「ママ、ちょっと疲れちゃったんだって。おねぇちゃんと少し遊ぼうか?」
女の子は突然の友達の登場に少し目を丸くし、一瞬母のふくらはぎ裏に回って隠れた。
「ジュース、嫌い?」
黒髪を後ろで一つに結った女子学生が紙コップに入れたオレンジジュースを差し出すと、
「うん?」
曇りのない眼で膝裏から覗くように見返してきて、次の瞬間、
「大チュキ!」と飛び出してきた。
女性ボランティアに寄り添い、短い足を必死に動かしながら紙コップを両手で抱えるようにして、こちらへ歩いてくる女の子は、有利の手前で立ち止まった。
話を聞き終えて取材メモをまとめていた有利は、ぱっちりした瞳で見つめられて内心どきりとした。
女の子に少し遠慮がちに微笑みかけると、
二つの焦げ茶色の瞳でじっと見つめ返された。
「おねぇちゃん。なにしてるの?」
踏み締めていた地上が体感を失っていった。背中に貼り付いたシャツに、妙な違和感を覚えた。
みじろぎ一つできない私がそこにいた。
【筆者スクリーンショット©️フォトライブラリー】
月光仮面のテーマが鳴っている。生来レトロ趣向で、着メロまで統一していた。
有利は細く長く息を吐き出し、眉間に寄ってしまった皺を必死に伸ばし伸ばし携帯電話に出た。
「有利クンか。大阪支局長の今井です。」
予想通り野太い声が出てきた。
「どうなってるんだ。今朝の朝刊、うちだけ特オチやないか。」
穏やかさを装った声だが、裏にかなりの批判がこめられている。
「被災地からの報告、他紙はみな企業側の動向に焦点をあてているだろう。物資配送地区は君の担当だろう。うちだけなぜNPOの活躍記事と、名も知れぬ被災者母子を取り扱った記事なんだ。」
有利の目の前で、積み上げられた瓦礫の山が粉塵を巻き上げている。通りすがり様、毛布を被り、わずかな乾パンを口にいっぱい頬張って駆けてゆく少年が煤だらけの顔でこちらを見遣って、死角へ消えていった。
「被災地の悲惨さを伝えるのが大切なんじゃないでしょうか。」
早足で移動しているためか、途中途中で足場の崩れたアスファルトの隙間にまろびかけた。
「しかしなぁ、特オチは不味いんや。特オチは。」
ハンドバッグに差し入れた朝日と毎日が、縦に二つ折りしたためか瓦礫に引っ掛かって皮肉にも「財界」の文字を見せつけてくる。
「被災者の痛みを伝えるのが報道じゃないんですか?財界の意向など、現地で日々を必死に生きている被災者の姿に比べれば、扱いを重視するものではないかと」
一瞬、耳を疑った。空耳でなくば、バックに朝の演歌が流れている。
鼻歌でも歌い出しかねない他人事じみた調子で、特オチが、特オチがと携帯の向こう側の世界で連呼する。そこは暖房のたかれた平和鎖国空間だろう。
有利は携帯のこちら側の世界で眉間に力を込めた。
「支局長、一度外の空気を吸うことをお勧めします。私は現場で、被災者の惨状を肌で感じている、記者としての自分を信じます。」
答えを待たずして一方的に通話を切った。
思わず、バッグから突き出ていた二大新聞を中に押しやった。
冬晴れの空の下、経を読む声が聞こえる。
時折吹き寄せる風が、屑を巻き上げて肌を刺す。
瓦礫の山の中でささやかな葬儀が行われていた。
特別危険指定区域の住民たち数十人と、NPOのボランティアが黙祷を捧げている。
有利も急ぎ、その参列に加わって頭を垂れた。
なにげなく視線を這わせた先に、ざんばらの頭で瓦礫をただ凝視していた、喪主の女性を見付けた。
参列者一人一人に深々と礼をするその人は、腫れた目で、しかし毅然と自分の夫を見送っているように見えた。
黙祷者の列に、あのオレンジジュースの少女を見付けた。
髪を後ろで一つに結った女性ボランティアの横で、手をつないでいる。
「おねえちゃん。なにしてるの?」
あの時のそれは、有利自身への問いだった。
有利は腕時計を見た。原稿出稿までまだ時間があった。
ただし次の取材先に向かわなければ、の話だ。
有利はまとめた取材メモをポケットに押しこみ、迷わず瓦礫撤去の輪に加わった。
「意識は?」先に自分で質問した項目を思い出す。
「なんとも言えません。」
見返す目にも力をこめて、眉間に深い皺を寄せた救助隊員は奥歯を軋ませた。
「わずかですが、呼びかけると痙攣にも似た反応があります。」
睫毛の長い二つの瞳でこちらを射抜く。軽く会釈すると煤と粉塵にまみれる撤去作業に駆け戻っていった。
有利は素手で瓦礫の山と向き合った。爪の間に細かい石の粒が入り込んできた。手を動かす度、赤黒いものが滲んだ。すぐに腕のあちこちが擦り切れて血の筋が何本も腕を伝った。
大人4人抱えくらいは裕にある巨岩は撤去できていた。脆く、ややもすると倒壊して、中に埋もれている被害者をそのまま押し潰してしまいかねないコンクリートを残すところとなっており、返って慎重さが要された。
なにをしていいかもよく分からなかった。ただ、汗をかかずに見ているだけの、デスクに座る側の人間にだけはなりたくなかった。新聞記者である前に、まず人として、目の前の人をなんとか救いたかった。
1時間後、被害者の男性は瓦礫の下から救い出された。奇跡的に呼吸が確認された。
歓声の中で迎えられた男性は、しかし、その後の懸命な緊急延命措置も及ばず、地上で、息絶えた。
糸が切れたように、残された未亡人は瓦礫の上にくずおれた。
「あっ、おねぇちゃん」
黙祷を終えて私の姿を認めたらしく、確かヤヨイといった女の子が駆け寄ってきた。
娘の声に参列者に挨拶する母親もこちらへ目を向け、会釈した。
会釈を返す有利に、
「おねぇちゃん、これ、ヤヨイでしょ。」
ズボンの裾を引っ張って、いつの間にかボランティアの女性に渡された記事を片方の手で振り回した。
ベタ記事の横にあえて載せた写真の枠で、ヤヨイの微笑が咲いていた。
この被災地で生きている命に祈りをこめて。この災害時に不謹慎だ、と自粛を求めるデスクを強引に納得させたものだった。
【筆者スクリーンショット©️ジャーナリスト菊地由貴子】
「ヤヨイちゃん。ちょっと。」
有利は葬列から外れたところへヤヨイの手を引いていった。
丸い目をくるくる動かしながら大人しくついてくるヤヨイの前で膝を折った。
「お写真、もう一枚撮ってもいいかな?」
ヤヨイはちょっと考えたようなポーズを取ってから、
「うん、いいよ。」
と目をくるくる動かして口元を緩めた。
「ありがとう。」
口に出して、私はシャッターを押す。
そしてもう一度。ありがとう、胸のうちで繰り返した。
【筆者スクリーンショット©️フォトライブラリー】