【邪馬台国はどこにあった?!】検証パート.1 #ガジェット通信 #ナリタマサヒロ

まず、「魏書」「倭人伝」には、帯方郡―狗邪韓国間については、乍南乍東とあります。
帯方郡はソウル付近、狗邪韓国は釜山の西、金海地方にあった、とされています。

地図で見ると、ソウルから金海地方までは東南にあたるため、ここは全く問題ありません。
次に、狗邪韓国―対馬国間については、「魏書」「倭人伝」に、南とあります。
対馬国については、長崎県の対馬で間違いないでしょう。
ただ問題なのは、その治所が上対馬、下対馬のどちらに在ったかです。

今現在、はっきりと断言できません。ですから、上下対馬、両方について、考えたいと思います。
金海地方から上対馬までは、東南です。
一方、金海地方から下対馬までは、だいたい南にあたります。
次に、対馬国―一大国間については、「魏書」「倭人伝」に、南とあります。
一大国については、長崎県の壱岐で間違いないでしょう。
上対馬から壱岐までは、ほぼ南にあたります。
下対馬から壱岐までは、東南です。

次に、末盧国―伊都国間については、「魏書」「倭人伝」に、東南とあります。
末盧国については、佐賀県北部、東松浦半島にある唐津市周辺への比定が有力です。
伊都国は、福岡県糸島郡の前原市が、やはり比定地として、ふさわしいでしょう。
唐津市から前原市までは、細かく言えば北北東、大雑把に言えば東北または東にあたります。

余談ですが、伊都国を糸島に比定することは、方角的に九州説にとって不利なんですね。だから、最近、伊都国の比定を糸島にしない研究者も、出てきています。もちろん、表だって自説に不利だから・・・とは言いませんけれど、やはり本音はそういうことでしょう。これは、いけません。

さて、次に、伊都国―奴国間については、「魏書」「倭人伝」には、東南とあります。
奴国に関しては、やはり須玖岡本遺跡のある福岡県春日市が有力でしょう。
福岡県前原市から福岡県春日市までは、東にあたります。
ここまでの比定については、一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者の意見が一致しています。しかし、不弥国以降については、一致していません。
以上、研究者の意見が大体一致する比定地の方角を検討しましたが、とても正確であるとは言えません。
  
 そこで、原田大六氏のような説が出てくるのです。
 原田大六氏は、次のような説を唱えます。
 
 太陽の出る場所は夏至と冬至では約六十度違うので、もし冬の最中に帯方郡使がやってきて、太陽の出る方角を東としたら、実際の東は東北になり、南は東南になる。もし夏至近くにやってきたら、東は東南になり、南は南西になる。狗邪韓国から不弥国までの相違が、実際と約四十五度内外南よりに誤差が生じているのは、帯方郡使がやってきたのが夏であって、それに随行して、記録をとった者が、方位を太陽の出る方角(を東)にしたので、そこに四十五度の差が出たのではないか。
   (原田大六『邪馬台国論争』三一書房)
 
 原田大六氏は、太陽の出る場所が夏至と冬至では約六十度違うから、冬の最中にやってきて太陽の出る方角を東としたら、実際の東は東北になり、南は東南になる、もし夏至近くにやってきたら、東は東南になり、南は南西になる、といいますが、これについては、全く理解できません。
 

確かに、夏至と冬至では約六十度違います。
けれども、夏至の時の日の出は、真東から北へ約三十度傾き、冬至の時の日の出は、真東から南へ約三十度傾くのです。
つまり、夏至の日の太陽の出る方向は、実際の方角と比べると、約三十度違うだけなのです。
約三十度、約三十度違うだけなのです。六十度も違うわけではないのです。

つまり、言葉のマジックを使っているのです。

 また、「魏書」『倭人伝」には、帯方郡から狗邪韓国までは東南とありますが、実際の方角も、東南です。
これに対して、原田大六氏は、帯方郡と狗邪韓国が陸続きというだけではなく、辰韓の鉄は帯方・楽浪二郡に供給されていたので、往来も激しく、地理が明らかにされていたからであろう(同)、といいます。
 
しかし、原田大六氏は、太陽の出る方角を東にしたといいます。帯方郡―狗邪韓国間を移動中にも、当然太陽の出る方向は北へ約三十度傾いていたはずですが、地理が明らかにされていたのであれば、ここで気づいて、その後の方角についても、何らかの修正をするはずです。
 
さらに、原田大六氏は、不弥国から先の方角に関しては、もはや暴走しています。
原田氏は、次のようにいうのです。
 
 一大率の権限は、狗邪韓国―邪馬台国の官営経済ルートの検察にあったが、強力な監視は不弥国までであった。その先は「魏書」「倭人伝」の記事にあるように、ほとんどが船旅であったが、船には監視の武装兵が乗り込んでおれば、途中で荷を抜かれることはない。
 また、伊都国から先へは、帯方郡使は行っていないから、不弥国から先のことは伊都国での聞知事項となる。この聞知が、その時の日の出の方向を以て東とした。そのため、再度四十五度南に振って、ここにあるべき方位が、ついに南になってしまった。邪馬台国から先の狗奴国は、これも同じ方向に針が廻って、東北であるべき場所が南となって、はじめからすれば百三十度も狂ってしまった。(同)

 百三十度・・・大胆なことをいいますね。
原田大六氏は、使者は伊都国から先へは行かなかったといいます。
 しかし、「魏書」「倭人伝」には、「今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮え、装封して帯方の太守に付して仮え授く」と、あります。
ここで、金印紫綬について、帯方郡の太守を通して与える、とあるのです。
これは、どういうことなのでしょう。
なぜ、難升米や牛利に渡さなかったのでしょうか?

 これについて、大庭脩氏は、難升米が悪心を起こして、その印綬を身につけたら、難升米が「親魏倭王」になっちゃうから渡さない(大庭脩『親魏倭王』学生社)、といいます。
私も、この意見に賛成です。
現代では考えられないことですが、古代においては、そんなものかもしれません。
だから、金印は難升米や牛利に渡さず、卑弥呼のところまで直接持って行った、と考えられるのです。
とりあえず、仮に、魏使が日の出の方向を東としたとしましょう。もちろん、夏至に近い日と想定して、伊都国から先に郡使が行っていないとして、です。

 約三十度北にずれている状態ですね。日の出の方向を東とし、そこから同じく約三十度北にずれていくと・・・東であるべき方位は、やっぱり約三十度北にずれた状態になるはずです。
 原田大六氏のいうように、そこから三十度ずつ北へずれていくなんてことは、あり得ないと思います。
 たとえば、AからBに至る方向を、東なのに東南としてしまった。BからCに至る方向も、東を東南にしてしまった。では、AからCに至る方向は、どうなりますか?
 実際の東が、南になってしまいますか? いいえ、違います。東は東南になったはずです。

また、高城修三氏は、次のようにいいます。
  
 帯方郡から梯儁らが詔書・印綬・詔賜の品を携えて倭国に向かったのは正始元年の二、三月ころであったと思われる。というのも魏は景初三年正月に明帝が崩御したため、その忌日にあたる景初四年正月は後十二月として、そのあとに正始元年正月を建てた。卑弥呼に少帝の制詔のことがあったのは景初三年の十二月だから、先帝の忌日・正始改元と続いたあと、帯方郡治が遣使の用意を整えるのは早くて二月であろう。
おそらく春分に近いころで、帯方郡治の周辺」もすっかり春めいていただろう。郡治を早朝に立った梯儁は、ほぼ真東に昇る日の出を見たかもしれない。それから、約一ヶ月半を」費やして郡使一行は伊都国に到着したと思われる。・・・・・・梯儁は梅雨の始まる前には伊都国にはいって、少なくとも二ヶ月以上そこに滞在し、邪馬台国からの報告を待ったであろう。はば梅雨の時期であり、日の出の位置が最も北上するころである。伊都国に到るまで、梯儁は倭国に近づくに連れて次第に暑くなり、ついには亜熱帯地方を想わせる梅雨を体験したであろう。しかし、その間、方位を教えてくれる日の出が次第に北上しているために、記録した方角が少しずつずれていったことには気づかなかったに違いない。郡使一行は役目を終えると、台風シーズンが到来する前に、来たのと同じ行程で帯方郡治にもどったと思われる。来たときとは逆に日の出の位置は次第に南下し、郡治に到着したころにはやはり真東に近いところから朝日が昇ったであろう。そのため、倭国に向かったときとは反対に方角が微妙にずれ、梯儁はそのあやまりに気づくこともなかったのであろう。
(高城修三『大和は邪馬台国である』東方出版)

 高城修三氏は、梯儁が伊都国にはいって、少なくとも二ヶ月以上、そこに滞在し、邪馬台国からの報告を待ったといいます。しかし、二ヶ月も滞在していたのであれば、普通に考えて、邪馬台国まで行ったのではないでしょうか。何も、二ヶ月以上も、伊都国でぼーっとして、滞在する必要はないでしょう。まして、帯方郡治から約一ヶ月半も費やして伊都国に到着したのであれば、邪馬台国まで行くべきでしょう。

 しかし、仮に、高城修三氏の言うとおりだったとしましょう。
けれど、「魏書」「倭人伝」には、「其の八年、太守王き官に到る。倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず、倭の載斯鳥越等を遣わして郡に詣りて相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わすことに因りて詔書黄幢を齎し、難升米に拝し仮え檄を為り之に告喩す」とあり、張政も倭に来ているのです。

 高城修三氏は、これについても、同様に考えるのでしょうか? 春分近くに帯方郡を出発して、台風シーズンが到来する前に倭国を後にした、と。しかも、全く同じような日程で?
 そんなことは、まずありえないでしょう。

 というのも、郡が張政を派遣したのは、狗奴国との戦争が激化したため、卑弥呼が郡に救いの手を求めて、使者を遣わしてきたためだったからです。

 さらに、「魏書」「倭人伝」には、「復た卑弥呼の宗女壱与を立て、年は十三なるものを王と為し、国中遂に定まる。政等檄を以て壱与に告喩し、壱与倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わして政等の還るを送らしめ」とあり、張政等は、正始八年に倭国へ来てから国が治まって新しい王壱与が立つまでの間、ずっと倭国にいた、と考えられるのです。

 しかし、近畿説を唱える研究者の方々は、方角について検討する際、どうも考え方が、飛躍してしまう傾向があるようです。
 ここで、もう一度、夏至について考えましょう。

夏至は一年中で一番昼が長い日のことで、だいたい六月二十二日ごろです。
このとき、日の出は、真東から北へ約三十度傾きます。そう、たかだか三十度です。
ですから、もし夏至の時に、日の出によって方角を誤ったとしても、せいぜい南を東南に、東を東北に間違えるくらいで、南を東と、九十度も誤るなどということはあり得ないでしょう。

また、近畿説を唱えるみなさんは、日の出、日の出と騒いでいますが、不思議なことに日の入りについては無視しています。
実は、夏至の時、日の入りは、真西より北へ三十度傾くのです。
だから、日の出について語るのであれば、当然、日の入りについても語るべきでしょう。 
私は、方角については、これといった決め手はないと思います。羅針盤もない時代ですし、方角は、魏使自身の方向感覚によるものだと思います。だから、けして厳密ではないでしょう。けれども、その誤差は、最大で五、六十度ほどだったと考えます。

というのも、普通の方向感覚であれば、南が東にはなりえない、と思うからです。
まして、使者は一人ではなく、複数であったのですから。

                                                       検証パート.1完

ガジェ通・寄稿ライター:マーヴェリック

出版編集プロダクション法人マーヴェリックの中の人。