めまぐるしく登場する最新携帯電話機や『iPhone』に『Android』、そして『ニンテンドー3DS(以下、『3DS』)』に『PlayStation Vita(以下、『PS Vita』)』等、近年に登場する様々な高精細機器における技術進化のカーブは更なる弧を描き、人々の生活に対する浸透の度合いを益々と深めてきている。これまでは携帯電話メールがようやくであった様な人も今では『Android』を使いこなし、『3DS』で手軽に裸眼立体視を楽しんでいるというような変化が、筆者の周りにも散見されるようになってきた。
こうした心をくすぐる製品群が、まだ”家電”と呼ばれていた古き悠久の黎明期。コードで結ばれていたリモコンに行動範囲を制限され、改札口に立つ駅員がカチカチと手動で切符に切れ込みを入れていたあの頃、消費税など存在すらしていなかったというのにも関わらず、小さな黄色いビニール財布に、どこで貰ってきたのかすら判らない一円玉や五円玉をたっぷりと忍ばせながら、舗装のされていない町中をジャラジャラと走り回っていた子供達が今、こうした技術を根底から支える技術者に育っていった。
彼等技術者が生み出しているこうした家電群の普及率は、まさに技術の進化に比例する面がある。四角く重たいレンガのようなままの携帯電話ならば、現代の女子高生やシニア世代が好んで持ち歩く筈もなく、白黒の無機質で小さな画面の中に住むバーチャル彼女を愛でる事も無いだろう。
急速に生活へ浸透してきたこれらの技術は、ふと見回してみれば、そこにも、あそこにも、我々の周りにはいつしか無数に溢れている。そうした時代背景の中、我々現代消費者にとってもまた、重要なスキルが求められる様になってきた。取捨選択だ。何が良いもので、何が悪い、そうした勧善懲悪めいた安易な概念で片付けてしまうのではなく、何がどの様に自分のライフスタイルにマッチするのか、楽しませてくれるのか。高い水準での物選びが大切になってきていると言えるだろう。
時代に沿った判り易い例としては、『iPhone』、そして『Android』の選択が挙げられるだろう。
どちらも、素晴らしいスマートフォンプラットフォームである事は明白だ。数あるガジェット群に比較して、スマートフォンはその人気から、選択を検討される事の多くなってきた分野であると言えるが、貴方の周囲においても、携帯電話からスマートフォンに移行したという方が急速に増加しているのではないだろうか?こうした、ある種のトレンドに牽引されている様な感覚は、我々島国日本国民のニーズを引き出す良いきっかけとなっている。50%を超えた普及率は、そこから更に弧を描き伸びていくという説もあり、お隣の奥さんやお向かいも買ったのならば、我が家も大抵買ってしまうものだ。それが新型カラーテレビでも、スマートフォンであっても変わらないというのが心情であろう。
どちらのスマートフォンが良いのか?そうした明快な二元論もまたエキサイトに論ずる事の出来る良いテーマではあるが、敢えて逆の視点からこの事象を眺めてみたいと思う。
”何故、それを買わない事に決めたのか”
『iPhone』や『Android』、『3DS』や『PS Vita』。いずれも、最先端のガジェットであり、十分に魅力的な製品だ。多くの購入者達を楽しませているだけに留まらず、それが無い生活など考える事は出来ない、と、高度に魅了されているファンをも生み出している事だろう。しかし勿論、誰もが当たり前の様に所有しているというわけではなく、我々のようなファンが多く居る一方では、所有しないという選択を貫く方も少なくは無い。そこまでとは言わずとも、いつかは買おうかという想いにとどまっている段階から、それこそ、全く興味の無い方に至るまで、千差万別十人十色、人の目に映る魅力というものは実に様々だ。
これらの中で、全く興味の無い方についてはともあれ、購入を検討した事がある方にとっては、少なからず”買わなかった理由”がある筈だ。人々の持つこうした気持ちの大小を、何らかの手段で分布化し、もしもグラフのような物を描く事が出来たならば、そこには製品それぞれにおける人々の注目度や関心といった様が、ありありと浮かび上がる事だろう。
人気の製品群は勿論、買った人も多ければ、”検討した上で”買わなかったという人々もまた正比例して多くなるわけであり、この”グラフ”は実に色濃いものとなるであろう。一方で、人気の無い製品は検討された回数そのものも自ずと少なくなり、色味の薄いグラフを描く事になる筈だ。
少なくとも、迷わせる事の出来た製品やコンテンツというものがまず存在し、その上で購入をしないという選択が色濃く生まれてくる。そうしたマクロな視点で眺めてみれば、ヒットコンテンツの陰にはこうした単純なロジックが顔を覗かせる筈だ。
一方で、奇をてらいキャッチーで、個性的な魅力をもつ独特なコンテンツの場合には、”迷う”という衝動を一足飛びにして、一気に購入を決意させる力を持つ場合もあるだろう。”ジャケ買い”や一目惚れとも言われる、消費者経済行動学に基づいた、ごく自然な現象だ。
長期にわたり土台を維持し、ゆっくりとではあっても着実に浸透していく力を持つ商品は、多かれ少なかれ人々を迷わせるものであるが、反面、一目惚れを起こす事には至らないまま、迷わせるという力をも発揮するに叶わなかったコンテンツらは、時代の滴となってひっそりと海原へ消えていくのみだ。
筆者と同様に提供者の立場であるならば、そうしたニーズを見極める観察眼を育む事も大切である。人々を迷わせるコンテンツ作りというものに、万能な解など存在してはいないのであろう。
しかし、迷われる事も無く消えていったコンテンツの陰に、それを示唆する理由は必ずある筈だ。たとえそれが後付であったとしても、精査し検証する事に、必ず意味はある。
提供者側視点の閑話だが、人々を楽しませるためのコンテンツ造り過程においては、得てして答えの無い迷路にはまり込み、大いに悩む事もある。”楽しい”という定義は存在していても、それを解き明かす万能な解などは存在していないからだ。しかし、そんな時こそ個性を尖らせるチャンスであろう。奇をてらうのではなく、表現したい事へ素直に向き合い、コンテンツ制作という人生を選択した自身の歴史に足跡を残す事が大切だ。
消費者の脳を直撃する様な奇跡のアイディアを、虚ろな目で延々と延々と探し求めるよりも、”購入を悩ませる”段階への到達が、その先へ続く着実な一歩であろう。
明確な”買わない理由”は、”買う理由”に勝る
かつて、世界中のリビングを制圧した『ファミリーコンピューター(以下、『ファミコン』)』。これだけ爆発的に売れたコンテンツだからこそ、また同時に、実に無数の”買わない理由”が存在していた筈である。
”ウチは、『ファミコン』は買いません”
親から叩きつけられた死刑宣告のような悲しい一言に、ぐっと涙を飲んだ幼少時代があったかもしれないが、物を買うも、”買わない”事も今では、大人になった現在の貴方の選択にかかっている。
現代に溢れる魅力的なコンテンツや商品の数は、もはや、膨大という言葉に見合う規模であると言えよう。
商品に対する知識を得る事も容易ではない、その様な現代事情の中において、一度でも購入意欲をかき立てられながら結果的に見送る事を決めたコンテンツに対し、自分にとって十分に納得出来る理由がそこにあるならば。
そう決意した意識の中では、もしもそれを購入し所有した場合そのものよりも、深い充足感が得られている筈だ。それは、意志決定に至る過程がもたらした知識向上が、確実に貴方の知的財産として吸収されている証であるからだろう。
貴方のコンテンツ選びに、幸がありますように。
画像:『Apple iPhone公式サイト』より
http://www.apple.com/iphone/