ホッパーの『寂寥感』とマツコの『哀愁』

  by あおぞら  Tags :  

エドワード・ホッパーという画家をご存知だろうか?偉そうに書く私だって90年代半ばまで知らなかった。職場に飾ってある絵に「この絵、いいですね?」と上司に言うと「エドワード・ホッパーです」と返り、私が画家名を知らないことを察知した上司は「エドワード・ホッパーは有名ですよ、この絵はホイットニー美術館にあります」……. これが私とエドワード・ホッパーとの出会いだった。

エドワード・ホッパーは1882年、ニューヨーク生まれの写実的描写の20世紀アメリカを代表する画家である。ニューヨークの美術学校を卒業して、パートタイムで広告代理店で働き、そこで商業雑誌の表紙のカバーデザインを担当した。

さて、そのエドワード・ホッパーの絵はなんとも形容しがたいくらい淋しいのである。その絵についてニューヨーク在住経験のある友人と東京⇔ニューヨーク間でメールのやりとりをしたことがあった。私はホッパーを仕留める言葉がみつからなかったが、友人が引用する「寂寥感」の文字を返信で見つけた時、思わず膝を叩いたくらいだ。

上記の絵は「New York Movie」と言う1939年の作品だ。私の好きな絵のひとつで近代美術館(The Museum of Modern Art)にあることは知っていたけれど、今まで実物に出くわしたことはなかった。しかし、それが昨日はこの絵の前にたった一人の対面者として向き合ったのだ。場所は意外なところにあった。5階の北側エレベーターホールでデザインが小部屋のようになっている死角に飾ってあったのだ。人なんていやしない。

実物を目の当たりにするとなんともいえない充実感が足底から湧き上がる感じがした。そして作品の説明のプレイトには「1939年制作」そして「1941年匿名者より寄贈」とある。ここもたまらなくいい。寄贈する人が名を名乗らないのである。この「New York Movie」を詳しくは調べていないが、勝手なる想像では、ホッパーに愛人がいてその愛人に贈ったとする、愛人は2年程暖め結局手離していった… 下衆の勘繰りと言うものだろうか。

その「寂寥感」あふれるホッパー作品と共に、「哀愁」を感じる人物にマツコ・デラックスがいる。

日本もアメリカも今はネットを通じて随分近い。それに半年も帰国していた私は日本のテレビを嬉々として見ていた。マツコ・デラックスは出るべくして出た逸材だと思う。毒舌として売っているようにも思えるのだが、最近Youtubeで「サワコの朝」にゲスト出演していたマツコを見ることが出来た。阿川佐和子と楽しそうに会話する中で、阿川佐和子がマツコを形容するのに「哀愁」と言う言葉を用いたのだ。鋭い!実に鋭い!

昨日、近代美術館(The Museum of Modern Art)の映画ホールで白黒のフランス映画を観た。娯楽映画ではあったがフランスの手にかかるとそこに哀愁がかもし出される。アメリカ映画にはこの哀愁が足りない。意識しても作り出されるものでなく、本質的に備えているか備えていないかの差のように思える。一流と言われる人にはこの哀愁が備わっている。ビートたけしもその一人だと思う。トヨタ自動車のテレビコマーシャル「ヒッチハイク篇」で、この二人は共演している。木村拓哉には哀愁は感じられないが、このマツコ、たけしのやりとりになんとも言えない満たされた空間を感じた。

人間の感情には喜怒哀楽がある。人間として二つ選べと言われたら「喜」と「楽」がいいだろう。しかし、世の中そんなに甘くない。「怒」は必要以上にエネルギーを使う。この四つの感情の中で人間の高度な感情技術があるとしたら「哀」だと思う。これがもし「悲」なら重すぎる。

その高度な「哀」を思うにつけ、「寂寥感」のエドワード・ホッパーと「哀愁」のマツコ・デラックスが好きになる。

The Museum of Modern Art
11 West 53 Street New York, NY 10019

画像:frickr from YAHOO!
http://www.flickr.com/photos/katrencik/2716874579/sizes/z/in/photostream/

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