春です。入社式、入学式も終わり、多くの大学生も、その生活に慣れ始めた頃でしょうか。
今回は、そんなみなさんに、大学生活のひとつのあり方を自身の例を交えながらご紹介します。
私は、現在都内の私立大学の文系学部に属しています。
私の大学では、ゼミ入試というものが2年冬頃から始まります。
すべての学生がゼミに入れる訳ではないので、みんな精一杯課題の論文や面接に力を注ぎます。
一次募集、二次募集。
すべての学生が希望のゼミに入れる訳ではありません。
第二希望。場合によれば、第三希望のゼミなどに入ゼミすることもあるらしいです。
―そして私の場合
端的に言えば、ゼミに入れませんでした!
ノンゼミです!
落ちた理由は分かりません。
などというと、自己分析が尊ばれる昨今、他の優秀な学生にはバカにされてしまうでしょう。
ただでさえ、就職活動では学校で取り組んだ領域として、ゼミでの活動が取り沙汰される機会が多いのですから、そんな同学年の仲間たちに負けたくはありません。
レポートもまじめに書きました。
面接もまじめに受けました。
どちらも私は得意としている分野です。
ひとつ引っかかったのは、私が受けたゼミの領域です。
私は、途上国比較のゼミを受けました。
途上国の現状、途上国を発展させる方法について、一般に適用しうる理論を知り、それを少しでも、周知し、途上国の現状を変えることで、私達の住む先進国の発展にさえ寄与しうる結果が得られると考えたからです。また、途上国の資源問題は、私たちの住む先進国のエネルギー問題と密接に関わってきます。だからこそ、原発の現状なども鑑みた上で、国家のセキュリティの向上のためにも、現在の途上国のあり方には問題があると考えたのです。
そして、私は嘘をつくのが嫌いのなので、上記の思いをそのまま論文でも面接でもぶつけました。
思うにこれが悪かったのでしょう。
相手は途上国分析の研究者。その視線は途上国に向いています。
その現状の打破に向いています。
だからこそ、我々の住む先進国のために、途上国を発展させようという論理はひっかかったのでしょう。
それでは、結局、今まで通り、先進国のエゴで途上国開発や援助がなされてしまうのではないか。と。
私自身、それは感じることです。それを避けるためにこそ、途上国から見た発展への視点を欲して、ゼミを志望したつもりでしたが、説明不足だったのでしょう。
加えて言うなら、自由主義を信奉している僕のワードのチョイスが、途上国に配慮したいという論理を説明する上でも少し攻撃的であったという反省はあります。
私も、いわゆる自分と逆の思想を持っている人に対して、ゼロベースで話を聞きたいと思っても、そのコミュニティでのワードの選択によって、聞こえ方が違って、その考え方が受容しづらい場合というのは経験してきました。もしかしたら、同じことを別のコミュニティでの言葉遣いで説明されれば、それを受容できたかもしれないのに。
とはいえ、過ぎたことを考えても仕方ありません。
私は、これからのノンゼミ生活をどうこなしていくかを考えるべきです。
言い訳をする気はないのです。
ゼミに入っている人間は入っていない人間よりも、その試験を乗り越えた点で優秀です。
だから、私は、そんな彼らに勝つ方法を覚えるべきです。
何故なら、何の綱もない私が、学業、就職で彼らよりも「自慢し得る」結果を得たならば、それは彼らのその結果よりも自慢されうるからです。
何故ならば、ゼミというリソース・資源がない私が、その資源をなくして、言うならば、資源不足にあえぐ日本が、その技術力で他の先進国と対等な関係を有し得ているのと同じように、私が結果を得れば、それに対する投資は少ない訳ですから、他の学生よりコストパフォーマンスはよい訳です。(なんて、冗談ですよ><)
これで親の目を見て話せます。
でも、私の親ならこう言うでしょう。
「でも、ゼミに入っていたら、もっといい結果が得られたかもしれないし、それに確実に友達は増えていたよね。生涯付き合えるはずの」
ごめんなさい。お父さん、お母さん。
がんばります!