学生支援機構のトップが語った奨学金問題の後編の記事が1月30日東洋経済オンラインで出ました。
「大卒は幻想」で「大学には奨学金の貸与に相応しいサービスをしていないところがある」、「奨学金の貸与に感謝している人もいる」という内容でした。
数学の証明ではないのだから、例外を出しても反証できないのは当然です。「大卒でなくても働いている人が多い」という主張は「大卒でないから就職先がない」という悩みを持っている人を慰めることは出来ないし、現状を変えることは出来ません。
「働く意欲があって、手に職があれば、活躍できる場所は必ずある」と言い切っていますが、この「働く意欲」が低賃金長時間労働を受け入れることを意味し、「手に職」が最先端の高度な技術を意味するなら「必ずある」と言えるかもしれません。しかし、一般的な技術の人が失業して普通の労働条件で探しても高卒の場合再就職が非常に厳しくなります。
一般的な「活躍」は、スポーツ選手や芸能人の「活躍」を思い起こしても、やりがいのある仕事をして周りに認められ十分な収入があることが条件になります。「活躍」のイメージは将来の夢や理想のようなものですが、大学に行かずに働いている人が皆「活躍」しているという趣旨の発言ですから、ずいぶんイメージを下げなければなりません。イメージを下げることで一億総活躍社会が実現したことにする意図なのでしょうか?
一流と言われる大学に行って成績が良かったにもかかわらず就職できなかった立場で言わせて頂くと、大学で勉強するのは絶対的な意味を持ちません。大卒は求人にも条件に入っているように単なる幻想ではありませんが、大学で勉強するのが良いというのは幻想です。
大学で勉強するのは当たり前だろうと思われるでしょう。その勉強のイメージがやはりずれているのです。
「企業は大卒だったらどこも同じと思っていない」という趣旨の発言がありますが、「大卒でも学校の勉強だけした学生は要らない」という本音を忘れてはいけません。企業はコミュ力を求めています。相手の発言を理解して正確に対話するだけでなく、雑談を含めて円滑にコミュニケーションする力が求められます。この力は集団によってかなり違います。
大学までに学ぶことは、自分がどの集団に属するのかを明らかにして、その集団に必要な力を身につけることなのです。「高専の延滞率が一番低い」との発言は、高専が一般的ではない進路だからこそ、その集団に所属する人は必要な力を身につけやすいことを表しています。
大学に必要なのは、ある集団に属する人に必要な力を身につけさせる効果的な方法を考えることでしょう。それには学力だけでなく、その大学が必要とする人間像を基準に選抜する必要があります。学力をあまり必要としない集団で学力をあげるだけの教育をしても逆にマイナスになることを少しは考えて欲しいものです。
ナリタブライアンが適性がないと思われる1200mのレースを走らされたことは批判されても、学力をあまり必要としない集団にまで学力をつけるのは良いとすることに違和感を覚えます。競争馬なら適性を探りながら育成されますが、人間の場合は無批判に学力をつけることを推奨してしまうのは、競争馬の方が値段が高いということなのでしょうか。
奨学金で苦しんでいる人が100人いて、奨学金で助かった人が101人いるなら助かった人が多いのだから良いのだというような論はやはり悪としか言いようがありません。「親に貸すわけじゃない」からローンではないと語っていますが、親に貸せば良いのではないでしょうか。親に貸せば苦しむ学生は減るし、助かる人はいるのだから何の問題もありません。借主の名前を親に書き換えるだけなのだからそんなに手間はかからないでしょう。
学生なら2・30年は死なないだろうし、生活費を削ってでも払えるだろうという本音の方を語ってもらいたいものです。
(写真は筆者撮影。元旦の日の出です。学生の希望が昇りますように)