行方市「霞ヶ浦ふれあいランド」虹の塔。芹沢鴨についての常設展がある。
新選組の初代局長芹沢鴨は長年茨城県行方市芹沢(旧芹沢村)の出身であり、同地の郷士芹沢外記貞幹の3男といわれてきた。
昭和期には新選組研究者釣洋一氏(「新選組再掘記」、「新選組誠史」)が唱え始め、平成期にその説を「実証」したと称したのがあさくらゆう氏(「新選組を創った男」、「新選組を探る」)である。
しかし芹沢鴨を行方市出身で芹沢貞幹の子だとする根拠は、実は存在しない。永倉新八の「新選組顛末記(原題新選組永倉新八)」には「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」と書かれ、同著者の「浪士文久報国記事」では「水戸芹沢村浪人」とあるだけだ。真壁郡に芹沢などという地名はない。従って、前者の記述には信憑性がないし、後者に到っては郷士の出身なのかすら不明である。芹沢村のどの家の生まれか全く分からない。これと「芹沢家譜ホ本」の芹沢貞幹に3男がいた(名前は不詳)という記述が組み合わされ、事実のように語られていたのが実情だ。
後はすべて伝承によるものである。釣氏やあさくら氏もすべて芹沢家当主故芹沢雄二氏などから聞いた伝承を元に芹沢村出身説を構築した。
山本秋広氏が「 水戸藩の点描」(1956年)で書いた、雄二氏の父外記氏にインタビューした記録が唯一活字化されたものである。
しかし、伝承は飽くまで伝承である。雄二氏も外記氏も断言する様な形では決して述べてはいない。
最大の根拠、幼名「玄太」が間違いと判明
行方市で売られているハンバーガー「なめパックン」。この姉妹作に鴨を模した「かもパックン」がある。
行方市に残る史料で芹沢鴨が貞幹の3男の根拠だとこれまでいわれてきたのは、芹沢家菩提寺法眼寺の過去帳に記される「芹沢玄太妻」の文字である。これを元に鴨が本家に戻り妻を娶ったという話(「新選組を探る」)が仮構されたのだ。
ところがこのくずし字の読みには間違いがあった。「玄」の字は実際は「兵」で、これを最初に読んだ研究者の未熟なミスが明らかになったのである。
長らく「芹沢玄太」だと信じられた名前は芹沢兵太だったのである。
そしてなんと、芹沢兵太は慶応4(1868)年に生存していた。芹沢家の分家東下村波崎(現神栖市波崎)の名主石橋彦兵衛が提出した「慶応4年周辺村々騒動につき東下村波崎名主石橋彦兵衛願書」によれば、当時の芹沢家当主は芹沢兵太という人物だったことが判明したのである。よく考えてみれば、過去帖に記された年代も慶応4年だった。
あさくら氏によれば、貞幹の次男で家督を相続した「鴨の兄」芹沢成幹が諸生党(水戸藩佐幕派)に投獄された後、芹沢家の屋敷は焼き払われたとあるが、実際は残存していた。
芹沢貞幹の四男長谷川庄七健久
「故 長谷川庄七(内務省二)」『昭和大礼贈位書類第二冊』 国立公文書館 芹沢外記の4男とある
更に驚くべき事に芹沢外記には系図に名前が見えない4男がいる事が判明したのである。それが長谷川庄七健久(荘七、勝七とも)である。
生年は文政7(1824)年か文政9(1826)年とされるが、もうこの時点で文久3(1863)年に32歳だったとする説が有力な芹沢鴨が3男ではない事が明瞭に分かる。38歳とするのは阿部家史料「公餘録」の浪士組名簿のみで、同史料は沖田総司の年齢や平山五郎の名前に誤りがあり、信頼性に欠ける。それよりは複数の史料に記された32歳説の方を採用するのが妥当であろう。
さて、文政期に芹沢外記を名乗ったのは貞幹とその父清幹の2人がいるわけだが、清幹は庄七が生まれたとされる年代に御年60代の高齢であり、妻の年齢も考慮に入れると、父親とはなりえない。また、清幹の4男は又蔵伴勝といい、新治郡宍倉村(現かすみがうら市宍倉)の浜野茂衛門家に養子入していることが判明している。
長谷川庄七の父親は貞幹という事は確定した。
更に小宮山楓軒の「楓軒年録」によって3男が文政8(1825)年には既に出生していた事実も分かっている。
芹沢兵太こそが貞幹の3男ではないだろうか。
下村嗣次「神官」説の不可解
芹沢鴨は松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐の婿養子下村嗣次だという説も断定口調で語られていたが、これも根拠が薄い。実際に松井村の神官だった下村祐と嗣次の具体的な関わりを示す史料は一切ないのだ。出て行った若者がいるという伝承が当家に残るだけである。嗣次の子供とされる常親の父親も祐とされている。
歴史群像72「新選組隊士伝」にあさくらゆう氏が提供した写真内の下村家墓誌では、文久元(1861)年6月14日没の「可阜勇比賣下村氏」は括弧をして神官下村嗣次のことだとされている。しかし、この神号は恐らく「かふゆひめしもむらし」と読む事ができ、ひめは姫に通じ、氏名で記されている事から女性を指すものである。
事実、その後墓誌は作り変えられ、下村嗣次とこの神号の人物は別人であるようになっていた。
なぜこのような事が起こったのだろうか。熱心に中郷町松井で「フィールドワーク」を行い、下村家の人と交流を持ったのはあさくら氏である事を記しておきたい。
芹沢鴨説の今後
以上の事実が最近明らかになった。しかしそれでも下村嗣次という人物は芹沢鴨と同一である可能性は残り、同人が芹沢村芹沢貞幹邸で捕縛されているという風説(「鈴木大日記」)が存在していることは事実である。
そこで芹沢家の分家で水戸藩に仕えた芹沢又衛門家の存在が浮上することになった。鴨の父親とみられる年代の当主以幹は弓の名手であり、生家である佐藤家は新田宮流剣術の師範を輩出した。以幹の子だとすれば鴨に剣術の心得があったのも頷ける話である。郷士芹沢家と剣術関係の繋がりは見られない。
更に島田魁が「英名録」に於いて芹沢鴨の名前の右横に「又左衛門子」と書き記したことも重要である。当時の文書ではその人物の名前の右横に父親との続柄が記されることは多い。その場合父親の姓は大体省略されるのである。
以上の説を10年以上前から主張されてきたのは歴史研究家の古賀茂作氏である。釣氏やあさくら氏はそれに答えず、ありえない話と耳を一切貸さなかった。
しかし、芹沢鴨行方市出生説の根拠が完全に崩れた今、自説を証明すべき立場に立たされているのは行方市出生説を唱えた論者達なのである。
※画像はウィキペディア、国立公文書館から転載