自由には責任が伴う

  by みね  Tags :  

私は、小学校から高校まで東京都内の公立学校に通学していました。授業や公式行事の練習の時に「ぼそっ」とそんなことを言う程度のものでしたが、「国旗・国家」に対して反対の姿勢を示していた教師はごくわずかだったけれどもいました。そして、教師の発言の影響なのかどうかはわかりませんが教師の発言に「同意」するようなことを話し出す生徒もいました。

教師といえども人間で個人としての主義思想は持っていて当たり前だと思いますが、学校という閉鎖的な空間で教師が個人の政治思想(国家・国旗に対する考え方は政治思想だと思う)を語ることはあまりよろしくないことだと思います。学校では一番上の存在である教師が自分の政治思想を主張する。高校生にもなれば判断能力は身についてくるものかもしれませんが、閉鎖的になりがちな空間で一番の力を持った人間がこうしたことをしてしまっては、生徒達に与える影響も少なからずあるでしょう。大半の生徒は右から左に受け流していると思いますが…。
いまだに国旗掲場や国歌斉唱を行わない学校はあるのかもしれませんが、今はそれは少数派になりつつあるのはごくごく自然な流れで、当たり前のことだと思います。公的な場所における公的な式典であるのだから、国旗を掲げ国家を斉唱すべきでしょう。それを行わずにして公務員と名乗ってもらいたくないし、税金から給与が支払われているということに理解を示すことができません。

冒頭でも述べましたが教師も人間で個人個人に考え方があるのは当たり前のことです。その心情に嘘を尽きたくないというのもわからなくもありませんが、それは何も教師に限ったことではありません。誰だってどんな立場の人間だって「自分に嘘をつきたくない」と思っていますが、それを押し殺してでもやらなければならないことが世の中には山ほどあると思います。教師だけが我侭を通していいという道理があっていいはずがないでしょう。

子供達を指導する現場で教師が我侭を通すことをしていいのか?

「社会に出れば時には理不尽なこともある」と自分達の姿を通して教えるべきではないか?

その上で堂々と自分の主張を学校外ですればいい。こうした当たり前のこともできずに「唄いたくない」「起立したくない」と言われてもそんな教師のことを誰が信用できるでしょう。

しかし、教育は強制か否か?と問われれば、強制ではないと思います。

「自由には責任が伴う」ことを明確にした上で、個人の自主性の下で個人個人が自ら学び、自ら考え、自ら行動していく…わからないことに対して指導を仰ぎ、それに対して教えるべき立場の人が指導をする。そして、物事には「表と裏」2つの考え方があるということも提示し、考える力を養わせる。これがあるべき教育の姿だと思います。
写真素材 足成:学校-机5
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1977年生まれ就職氷河期世代の人間。挫折と苦労を重ねてきた都内中小企業総務人事職として働く正社員独身実家住まいの独身男性。ブログとTwitterもやってます。

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