パラノーマルアクティビティ3~緊張と緩和より生じる恐怖~

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笑いの源とは緊張と緩和であるらしい。
例えば怒りの沸点が最高潮に達し、今にも暴発しそうな二人。
そんな対立する二人が急に顔を近づけて優しくキスをする。
緊張状態にある中での予期せぬアクション。

それはベクトルの異なる怒りの感情と溶け合い、高次のものへと昇華される。
要するに質のよい笑い。
哲学者カントにより指摘されたこの緊張の緩和理論は桂枝雀経由で松本人志に受け継がれ、そして2011年パラノーマルアクティビティ3にて結実した。言い過ぎだけど。

『パラノーマルアクティビティ』『パラノーマルアクティビティ2』は涙が出るほどゴリ押し感満載であった。超常現象が起こっている中にあって何ゆえ毎夜毎夜ご丁寧にベッドで寝る必要があろうか。昼間は涙を流し、霊が怖い、憑りつかれたらどうしようなどと弱音を吐いているのになぜか夜になると件のベッドに横たわり、ぐっすり眠っている。結果的には家が問題ではなく、その個人が問題であることからどこに逃げても無駄、霊が追っかけてくるという落ちではあるのだけど、その部屋に何やら不穏な影を感じた時点でそこで一夜を過ごす気になるだろうか。逃げても無駄なのは知ってても、その部屋でぐーすかいびきをかいて眠ることが可能なのだろうか。

映画の世界だからというエクスキューズは無理があろう。
考えればいくらでも改善策はあろうにそれをしないで強引に物語を勧めるのは「映画の世界だから」を盾にした甘えにしか見えない。
だから魅力を感じない。
いやそもそも魅力などどう頑張ったって感じられるわけはないのだ。
それは前作、そして前々作の世界感が内包する矛盾がゆえ。

要するにお話の肝がベッド周りで起こる霊との格闘であったこと。
だからこそその設定を満たすため、必ず誰かが毎夜霊が現れたはずのベッドで横たわらなければいけない。ドアが数ミリ開いたり、布団がふわっとしたり、お茶目ないたずらが多くを占めるものの、仕掛けられた当人はその翌日泣き、わめき、どうしようどうしようと当惑する。だがしかしその夜も映画を成立させるためにベッドへ向かい、寝る、ぐっすりと、霊が迫ってるのに。
この感情的相容れなさは致命的だろう。
だからベッド周りに焦点を合わしている限りはどうあったって『パラノーマルアクティビティ』は傑作になりえはしないのだ。

だからだろうか、『パラノーマルアクティビティ3』は何とこのベッドの呪縛から大いに飛躍する。
世界感の拡張。
別にベッドに固執しなくてもいいではないかという柔軟な発想が当作には充満しているのである。
その発想により生れ落ちた一つが、扇風機に小型カメラを仕込んで右に左に首を動かしながら隣接する2つの部屋の情景をゆっくり撮影するという手法。静かに忍び寄る何かをより動的に魅せてやろうという試みである。もちろんシリーズを通してのベッド周りを固定カメラでとらえ霊の出現をひたすらに待つ手法も健在ではある。しかし誰がどう見たって映像の中心軸はもはやそちらにはないのは明白で、小型カメラ搭載の扇風機にこそ恐怖を生み出す源泉がひしめいている。

これはかなり成功しているように思える。
シリーズ3作目にまで至れば、あのくるぞくるぞと思わせておいて結果的には5ミリ動いたドアだったりにある種の慣れを形成している者も出てくるはず。そしてその慣れこそが強烈な退屈へとつなげてしまう恐れがあるわけだ。
「どうせ最初の1時間はおちゃめな霊が舌出してへんてこないたずらをするだけだろ?退屈、全然怖くない」って。

だがその退屈を抱くタイミングはこの映画にはない。
ここにきて空間の使い方をガラっと変え、客の慣れを完全に消失させた。
当作でのお話の肝は霊に嫌がらせをされて右往左往している人間にはない。
むしろじりじりとした緊張とその完全緩和を利用しての恐怖心の醸成、爆発に焦点を絞る。
そこには1と2を下敷きにした戦略。
つまりはついつい霊の存在イメージしてしまうという人の想像力におもねるしたたかな考えが見え隠れするのだ。

もはや今までのシリーズで露呈していた矛盾はない。
人間不在であっても誰もいない部屋を眺めているだけで勝手に我々が霊の存在をイメージし、そして恐怖する。小型カメラが左の部屋を映している時に右の部屋ではもしかしたら霊がいろいろ何かやってるのではないだろうか。。そしてゆっくりと左の部屋から右の部屋へとその首を回転させていくときに流れる時間、そこに付着する恐怖たるやこれはもうなんというか一級品なのである!

だから結果的に右の部屋で何も起こらなくても充分怖い。
経過が怖い。恐ろしい。
我々は不可避的に想像してしまうのだ、恐ろしく肥大化した恐怖のイメージを。
ジリジリと焼けつくような緊張感に部屋の静謐。
その静謐が緊張に拍車をかけ、緩和の見せ方にいよいよ動力を注ぎ込む。

松本人志はこうも述べている。

”笑いと恐怖は紙一重である”と。

なるほど、そうかもしれない。

くるぞくるぞと思わせておいて、何も来なかった時に持ちこされた緊張状態は、よもや元の緊張にあらじ。それは飢えと渇望に満たされた極めてリスキーな緊張状態。
そしてその緊張状態にあるときに我々の心の様相はまさに同時に催眠状態にある。
抗えぬ一点集中。
緊張が重なれば重なるほど、その集中は深みをまし催眠に堕ちていく。
それを作り出すのはひとえに緊張に対する緩和への期待。
その期待への希求が我々の思考を極度に限定的にさせている。
そして面白いのがその欲する緩和の種類によって後に生じる感情も多種の彩りを見せるところ。
そこで出される緩和アクションがユーモアを含んだものであるならばより一層の笑いを。
逆に誰かが「ワッ」と驚かすようなアクション(緩和)であるならばより一層の驚き、恐怖を味わう。
実に多種多様。
笑いでもあるし恐れでもあるし、もしかしたら、悲しみの感情を増幅させるような緩和アクションもあるのかもしれない。

ところで、シリーズを通してのお話はその根底において何がしかの関連性を保っている。
本作は1作目の18年前のお話。
まだ幼女だったケイティが登場、時に自分が18年後襲われることになる悪魔とたわむれる。
そのたわむれている悪魔の名前がボビーだか何だかちょっと忘れてしまったのだけど、仲睦まじく幼女と話をしている姿(いやもちろん姿は見えないんだけども)を見てなんだか納得いってしまった。この悪魔は元々の気質として子供心を忘れないおちゃめないたずらをするのが大好きな悪魔さんなのかもしれないと。とすればドアを5ミリ動かしたり、訳の分からん音を鳴らしたり、ガラス割ったりと、意味のない行為を今まで無駄に繰り返してきたのもある意味合点が行くか、、と思わないでもない。

TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国劇場で絶賛上映中

・画像は『パラノーマルアクティビティ3』公式サイトより http://www.paranormal.jp/

 

1980年生まれ.大阪在住.男 作家を目指す傍らフリーライターとして活動しております。 現在、美術や政治経済の分野にてある業者さんのHPにコラムという形で執筆させていただいております。 また映画作品について書かせていただける媒体を探しております。 宜しくお願いいたします。