『時代のせいでもなく社会のせいでもなく他人のせいでもない。自分の努力が足りないから何事も上手くいかないんだ』という考え方。
自分の人生が上手くいかないと感じているのならば努力が足りない証拠。時代や社会や他人の責任ではない。自分自身の責任。年齢を重ねれば重ねるほど自分自身の責任はより強くなってくるでしょう。
しかし、これは遵法精神が重んじられ、出来る限り公平公正な社会作りを目指し奮闘し、寛容の精神(ここでは人を育てていこうとする考え方を意味する)がある……
つまり、これは中流階級=普通の生活が当たり前のものとして存在し誰しもがそうなれるものだと信じてきたからこそ成り立つ考え方であって、普通の生活というものが崩壊しつつある(と誰も信じたくないけれども頭のどこかでそういう不安を抱いているはず)昨今、この考え方は成り立たないような気がします。
自分自身の努力だけではどうにもならないことが世の中には存在しているはずなのに、全てを自己責任という言葉で片付けてしまう社会が今の日本の姿ではないでしょうか?
でも、こうした考え方が成り立つというのはありえないのが当たり前であって、こうした考え方えを持つことすらもおかしいという社会でもあると思います。
こんな社会だから、自殺者が増え心の病を抱える人が増えたのではないでしょうか?
言い訳なんでしょうか?
甘えなんでしょうか?
そうした一面はあることは否定しません。それならばどこまで努力を重ねればいいのか?という疑問が沸きます。価値観は人それぞれ違います。こちらが正しいと思っていても、相手側はおかしいと感じることもあるでしょう。自分で努力をして手順と礼儀を重んじても相手側がそれを受け入れない(理解しない)限り自分の努力は報われる時が訪れることはないでしょう。……にもかかわらず「努力が足りないから駄目なんだ」という考え方で全てを片付けてしまうような風潮はおかしいと思います(筆記試験などは別問題ですが)
自己責任という言葉で片付く問題もあるかもしれませんが、自己責任という言葉で自分の責任を回避しているだけのような気もします。
例えば、
A→B→C→D→E
A→Eへ順番に先送りし、順番に次の人が悪いと責め立てる。Eは…向ける矛先が無い状態。こうしたことを平然と行っているのが今の日本社会ではないでしょうか。こうしたことを行っている状況では、必ずいつか辻褄が合わなくなってきてやがて全ての繋がりが破綻をきたすことになるでしょう。
こうした状況は、「弱いものを蔑む風潮、格差の強調、言葉のインパクトで人を煽動する」風潮の表れでもあり、客観的な視点に立って全体を引っ張っていくリーダー不在の社会の証明でもあると思います。……これは日本にとっての最大の不幸でしょう。一億層無責任社会に陥ってしまっているとしか思えません。リーダたる人がいてもそうした人達は表舞台に出てこれない。裏舞台で頑張っている人がいるから何とか国として社会としての体をなんとか保てているのであって、表舞台でもそうした人達がいなければ終末へ辿るだけだと思います。この国は。
写真素材 足成:入口?
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