将棋とは、非情でストイックなゲームである。
運の要素もあるが、ほとんどが実力で勝負が決まる。
どんなものにも運は必要であるが、他のどのテーブルゲームよりも、実力がものをいう。
従って、強い者は圧倒的に勝つのである。
そして、将棋は知的ゲームである。非常に深奥でロジカルなゲーム性を持っている。
底が知れないほど、無限の指し手の組み合わせがあるのである。
かく言う筆者も大学生のときには、アマ4段の棋力があった。
従って、将棋の奥深さは理解している。
プロが紡ぎだす棋譜(指し手の記録)には、きらりと光る芸術作品がある。
引退されたが、大内延之九段の書を読んだ記憶がある。
怒涛流と称された大内九段の殴り合い(指し手の応酬)は迫力充分で、まず相手は打ちのめされるのは必至だった。重量級の接近戦や軽快なさばき合いの強さはピカイチだった。
将棋の難しさとは、幾千幾万通りの指し手の読みが拡がるからである。
それもただひたすら読めばいいというものではない。
読んだ先にある局面が優勢なのか、五分なのか、あるいは劣勢なのかという見極めができるかどうかということが重要なのである。これを将棋用語で大局観という。
読みの深さと大局観の優秀さが将棋の棋力になるのである。
読みの深さには、記憶力は不可欠だろう。
記憶の引き出しがたくさんなければ、どんどん読み落としてしまうからだ。
大局観とは、いくつものパラメータで構成される。
ある局面の「駒の損得」「駒の働き」「玉の守り、堅さ」「模様の良さ」など。これらを総合的に判断する力のことだ。
それと、もうひとつ大事なことに、プライオリティ、優先順位の付け方というものがある。
これは指し手に如実に表れ、効かしという言葉になる。
効かしとは、自分の主張、言い分をぎりぎりの間合いで通すというものである。
当然、通れば優勢になるわけで、相手が通さなければ劣勢になるという、相互理解のもと、必然のロジックを表すものだ。
先日、コンピュータ将棋とプロ棋士の対局が開催された。
プロ棋士が辛勝している姿があった。
筆者が学生の頃はまだ、コンピュータ将棋はアマ初段クラスで、とんでもない素っ頓狂な指し手をしてくるような、お粗末なものだった。
ところが、今ではプロ棋士を追い込むほどになっている。
元々、読みを深く、広く読むことは、コンピュータの得意分野なのだ。
昔は、大局観が稚拙で、それで曖昧な指し手を指していたのだが、大局観をうまく数値化することに成功して、アルゴリズムを見直して、画期的に強くなった。
いずれ、コンピュータがトッププロ棋士を次々に打ち破る時期が来るのだろうか。
チェスの世界では、世界王者を負かすほどになっている。
将棋は、どうか最後の砦は死守してほしいものである。