プッチ神父「崖に激突して死ぬツバメがいるそうだ……。そのツバメは得てして他のツバメよりもとても上手にエサを捕獲したりするのだが……」
「宙返りの角度の危険の限界を親ツバメから教わっていないため、つい 無謀な角度で飛行してしまう。だが その親は教えないのではなく、そのまた親から教わっていないので教えられないのだ。(………)
彼ら一族は短命な者が多く なぜ事故にあいやすいのか気づいてさえもいない」
さて、そうした「教えてもらってない」人が人材を教育した場合、教えてもらってない人に怒られた人が受け取ることは「自己嫌悪」と「萎縮」です。なぜならきちんとしたコーチングの指導を受けてない人が行う指導とは、感情から来る相手への怒りの爆発だからです。
先日、私はあるコンビニで新人さんがお昼のラッシュ時にもたついている時に、先輩の女性から怒られている場面に遭遇しました。
「いつまでもたついてるの!」
これはどこでも良く見られる光景かもしれません。ですが、こうした相手への自己嫌悪を誘発させるやり方は、私はあまり好きではありません。
先日読んだ新聞にこのようなことが書かれていました。
「怒るのではなく、叱るのだ」
つまり、おんなじ注意的指導を行うにしても、具体的かつ前向きな指導を行うべしということでした。
それは命令的口調ではなく、一緒に取り組もうという姿勢を示すということでした。
私が遭遇したコンビニのケースにしても、怒った相手は店がラッシュの時、動作が鈍い人相手にイライラしていたのだと思います。ですが、他人という思い通りにならない相手に対してイライラして怒鳴りつけても、それが早くなるかというと、かえって逆効果です。
そういう時は交代するとか、適切かつ具体的な指導を行うべきなのですが、そうした言葉が出てこないということは、その人もそうしたコーチングの知識を有していないということを露呈しているに等しいわけです。
それはその人がそうしたことを教えてもらってないと私は推測します。
そして、そうしたことを学んだ人がそうした萎縮や自己嫌悪から来る態度を自然に外に出した時、また人材教育者が怒るという悪循環を繰り返します。
その結果、そうした教えを受けた、本来真っ白であった人はドス黒い魂を受け継いで同じことを他の誰かに受け継がせるのです。
なぜそうしたことが繰り返されるかについては、プッチ神父が口にしているように、「気付いていないのだ」ということですが、それだけではありません。
かつて体育の授業で、こんな言葉を聞いたことがあるでしょう。体育教師から「運動中に水は飲むな」と。
なぜ今となってはこんな熱中症まっしぐらな非科学的なことがまかり通っていたのかについて解説します。
かつて戦争時代に戦地に赴いた人たちが復員して来ました。彼らの中には学校で教師になったものも何人かいました。
彼らは戦地でこう教えられました。「行軍中、現地では生水は飲むな。腹を壊す」と。
水の質が硬水や軟水という違いもさることながら、戦地では敵兵である彼らが水を飲もうにも、井戸に毒を投げ込んでいるケースが実在したからです。
問題は平和で安全な日本でも同じことを彼らが繰り返したことです。
戦後間もないころだと確かに生水はまだ生成面では問題があったかもしれませんが、昭和の中ごろから終わりごろになっても同じことを言われてた方もいらっしゃったと思います。
何故体育教師がそうした言い回しをし続けていたのかというと、軍隊方式が彼らの教育において息づいていたため、疑問を感じても上の人間に向かって質問をすることが難しい空気があったからです。
そうした悪循環が、体育の時間にあった「熱くても水を飲むな」に繋がったわけです。
それは「気付き」と「考える」ことの不在から来る連鎖でもあったわけです。
そうした水を飲ませない体育の授業の構図は今も続いています。
第二の敗戦を迎えつつある今の時代、せめて人材を自己嫌悪で腐らせて悪循環の連鎖をさせないためにも、「怒るのではなく、叱る」と、「注意するなら具体的、かつ前向きな取り組み」が込められたコーチングが必要だと私は考えます。