去年、ちょっと興味がありまして、ライターとしての記事の書き方のノウハウみたいなものをネットで漁ったりもしてました。 色々見て回ってますと、どうも一番大事なことは「タイトル」だ、という話が多かったと思います。
「タイトル」だけで面白さの伝わらる企画を考えられないヤツはライターでやっていくことはできない、記事の内容はその面白いタイトル(つまり企画)の説明であることが大事なんだ、中身が完成してからタイトルを考えるてるのは素人だ、全身全霊でタイトルを考えろ、と。
改めてネットの記事を見直してみると、今のネットの記事はそういう手順で作られているものは確かに多い、と思いました。もちろん、タイトルに引き寄せられて読んでみて面白かったという記事もあります。ただ、タイトルだけで簡潔できてしまう企画というものは、それは別の側面を見れば、大多数の人達の想像力の中に収まるものでないと成立しない面もある訳で、そういうことは問題にならないのか? と。ま、そんな疑問も湧いてくるのでした。
例えば、普通の人達の想像力を超えた所で物事を発想する人というのが非凡な人だと思うのですけど、その非凡な人が熱く語り始めると普通の人達にとっては「ちょっと待って、何言ってるか分からない」状態になりますし、当然それはタイトルだけで表現できるようなものである訳もないのです。例えばそこで普通の人が「話を整理をしよう」等と話の整理を初めてしまうと、途端にその話しは非凡な人の考えていることの3割も反映されていないような話に落とし込まれてしまう、と言いますか。そして、非凡な人がその3割に圧縮された話を呑むのが社会性でしょチームワークでしょ、と言われてしまうのは、ま、特にチームの上司なりリーダーなりが凡庸な人である場合は、良くある話になってると思います。「大企業病」という言い方もあるみたいですけど。
いや。すんません。
それはともかくも、タイトルだけを見て大多数の人がピンとくる企画には、凡庸な発想の範疇でしかない側面は、どうしてもある訳です。非凡な人の“枠を超越した”発想は、タイトルだけで平凡な人にそれを分からせることが難しいからです。それはある意味、ワンフレーズ・ポリティックス、と揶揄されることと根本を同じくする話になると思う訳です。
タイトルだけで分からせられる企画は、言ってみればタネも仕掛けも分かってる(平凡である)手品と一緒の所もある訳です。面白い手品は、タネとか仕掛けが想像できない(非凡である)から面白いんだと思いますし、それと一緒で本当に面白い話は凡庸な発想を超越しているところの話であればこそだと思うのですよね。
今の日本のネット文化はある部分、タネも仕掛けもある程度誰でも分かる手品に皆で拍手をしましょう、と。それを皆でやったらフラットな平等社会が生まれるんですよ、と。そういう哲学を掲げているような雰囲気がなきにしもあらず、と思うことは時々あります。「タイトル至上主義主義」は、そんなネット社会の「数」を後ろ盾とした哲学の中で純粋培養された、商売としてのノウハウなのかもしれません。ただ、いくら商売とは言っても、タネも仕掛けも見切れてしまう手品をタネも仕掛けも見破れない面白い手品と対等に扱うことを強要されてしまえば、それはある意味、カルト宗教です。
もちろん、「タイトル」を優先させるやり方で運営しても、それが常に非凡な人の視点が比較の対象として入り込める余地のある作り方であれば、全然構わないと思うのです。ただ、コンテンツはそれしかない、と。報道であろうが何であろうが全て「タイトル」ありきだ、という原理主義としてその制作方法が偏ってしまうのは、あまりいいことじゃない、と思うのです。
それが偏り過ぎてしまえば、それは決してカミングアウトされることのない一部の平凡な人達にとっての自己実現宗教の枠組みの中で、コンテンツ制作とその受け手の間のマッチポンプを形成して終わってしまう可能性が充分にあるのです。それはやがて、ま、ちょっと古いですけど、戦前の2.26事件を引き起こした民意の暴走のようなものになっていく危険性があると思うのです。「カエルの子はカエル」とは良く言ったもので、放っておくとまた同じ事やりますよ。油断したらダメですよ。
とりあえず、「タイトル至上主義」を万事テンプレ化してしまうと、ネットという場所で非凡な人の視点を見る事はどんどん少なくなっていってしまいます。非凡な人の視点が常に比較の対象として取り入れられる余地が潰されてしまうということは、2.26事件の本質そのもの、と言っていいと思いますので、それはあまり良い事ではないと思うのです。2.26事件は、多数決というか、あれは民意だったという重い現実から、目を背けてはいけない気はするのです。
いろいろ書きましたけど、ま、コラム系の分野ではネットにはまだまだ非凡な方が多数おられますし、そういう方々はちゃんと支持をされる傾向にまだありますから、そこら辺りはたぶん大丈夫なんだとは思いますけど、報道の分野がちょっと怪しい部分もありつつ、というところが心配は心配なのですよね。