「今度こそ…!」と思っていたが、「またか…!」という結果になった。
10月11日午後8時、ノーベル文学賞の受賞者が発表された。受賞したのは中国人作家の莫言氏。日本人作家・村上春樹氏の受賞は叶わなかった。
ニュースを遡ってみると、少なくとも4~5年ほど前から「村上氏、ノーベル文学賞受賞なるか!?」という主旨の情報を見ることができる。しかし、受賞には至らなかった。そして今年も同様に、村上氏はノーベル文学賞の有力候補に挙がった。イギリスの大手ブックメーカー・ラドブロークスの受賞予想では村上氏がトップであることが報じられ、なんとなく「今年は現実味があるかも知れない」と感じた人もいたのではないか。けれども、受賞とはならなかった。
筆者は村上氏の著作に詳しいわけではない。「ノルウェイの森」が映画化で盛り上がっていた頃、文庫版を購入して読んだ程度である。そのため、今回村上氏が受賞に至らなかった理由について彼の作品や受賞者の莫言氏の作品分析をするような芸当はできない。
感じたのは、事前に勝手に盛り上がりすぎでは?ということだ。熱心な村上作品ファンではないものの、読書好きのひとりとして、筆者も村上氏の受賞にはひそかに期待していた。そんな自身への反省も込めて思うのだ。
「なんか、毎年、盛り上がりすぎかも」
と。
日本に生まれ日本で暮らす人間として、同じ日本人である村上氏が受賞すれば「嬉しい」とか「おめでたい」と感じる人は多いだろう。受賞予想でトップだと報じられれば、期待に拍車もかかるというものだ。だが、現実はもっと別のところで動いているものなのかもしれない。
今回受賞した莫言氏は中国の農村に生きる人々を描く作家であるという。共産党批判や性表現が過激だとして問題視された作品もあるとのことだが、それだけ中国という国の深いところに切り込み、多くの人が言いたがらないことを語っているのであろう。
そうした作品を書いた作家が評価されるのは自然なことである。日本人が知らないとしても、村上氏のように世界的評価を受けている作家は見渡せば数多いる。選考側はそれを熟知しているはずだ。
毎年、過熱報道とまではいかないものの、「受賞なるか!?」と期待を寄せられる村上氏。受賞すれば本人にとっても喜ばしいことと思うが、自分に対する期待で世の中が少し騒がしくなる…というのはあまり心地よいものではないだろう、と勝手な想像をめぐらせてしまう。そもそも他分野のノーベル賞については、日本人の受賞予想について大々的に報じられることはかなり少ない。何も考えずにテレビを眺めているだけで、「あぁ、この人はノーベル○○賞を取るかもしれないんだな」などという情報を得ることはできない。筆者に関していえば、iPS細胞の研究でノーベル医学賞を受賞した山中氏について、受賞の報道でその存在を知ったくらいだ。少し失礼な話ではあるが、同じような人は多いだろう。
「過熱報道とまではいかない」と書いたが、文学以外で功績を残した人はあまり表立った期待を寄せられていないのを見ると、村上氏のノーベル文学賞受賞についてはやや過熱しがちともいえそうだ。
おそらく来年の今頃も、「村上春樹、ノーベル文学賞受賞なるか!?」という報道がなされていることであろう。そのときには、村上氏への温かい期待とともに、外国人の有力候補を紹介したり、他分野のノーベル賞候補者がいればその人も紹介するようなニュースを見たい。
これからは「受賞するする詐欺」じみた報道を望まない、と言ってしまうと「村上氏は今後も受賞できないと思っているのか?」と怒られそうだが、そうではない。村上氏のノーベル文学賞受賞は”おあずけ”になっただけだと思っている。仮に今後しばらく受賞できなかったとして、村上氏には非はない。作品の価値が下がることもない(めでたく受賞に至り、さらに価値が高まることはありえる)。「現実は別のところで動いている」ことを考慮しない報道と、それによって煽られた期待に反する結果が続けば、詐欺っぽくなってしまうのでは、という意味だ。時が来れば結果はわかるのだ。わかるまでは、誰にもわからない。
報道にモノ申してばかりいても仕方がない。来年はもっと冷静に成り行きを見守ろう、と肝に銘じるばかりである。