さよなら今までの私…大決断の前に想う”母の愛”
母代わりの尼君が初瀬へ出かけた隙をつき、浮舟にしつこく言い寄る中将。浮舟は最後の手段と、80過ぎの大尼君はじめ、おばあちゃん尼たちが休んでいる部屋に逃げ込み、まるで怪物のような大きなイビキに怯えながら一夜を過ごすことに。
眠れぬままに、自分の惨めな半生を振り返った彼女は、朝になってある決意を固め、大尼君に頼み込みます。程なくして、大尼君の息子の僧都が下山してきました。
修行中で滅多に下山しない僧都が降りてきたのは、女一の宮の病気のためでした。「叡山座主の祈祷だけではどうにも効果がない、やはり僧都でなければ」と、すでに二度ほど招請があり、更に昨夜、夕霧の息子が中宮直筆のお手紙を持って僧都のもとを訪れたのです。これにはさすがの僧都も行かねばならぬと思ったのでした。
「母上、体の調子はどうですか。妹はまた初瀬参りに行ったそうだが、あの姫君はどうなされた。まだこちらにいらっしゃるのか?」
「ええ、ここで留守番していますよ。なんでも、どうにも気分が良くないから、出家させてほしいと言っていたよ」。
一方、浮舟は自室にもどり、自分の髪をなでていました。長い黒髪は自分では到底梳きおろせないので、いつも髪のお手入れをするのは尼君のみ。いつもそうしてもらっていたので、この期に及んで他の女房に梳いてもらうのはちょっと嫌だな、というところです。
薫も匂宮も掛け値なしに褒めていた美しい浮舟の髪。長いこと病みついていたせいか、ちょっと量は減ってしまいましたが、それでも六尺(約2m)ほどもあり、毛先までツヤツヤ。
(出家となればこの髪ともお別れ。ああ、最後にひと目、このままの姿をお母様にお見せしたかった。自分で決めたこととはいえ、やっぱりとても悲しい。お母様だって、まさかこうなれと思って、私の髪を撫でて下さったわけじゃないだろうに……)。
そこへ僧都が大尼君の部屋からやってきました。「姫君、ここにいらっしゃいますか?」と几帳を隔てて座り、彼女に語りかけます。
「このままでは生きていけない」必死の訴えに高僧は……
「あなたをお助けすることになったのも前世からのご縁と、必死にお祈りを差し上げましたが、僧侶の身では女性に用もなくご連絡をすることができず、随分ご無沙汰してしまいましたな。いかがですか、こんな世捨て人ばかりの所で、毎日どうやってお過ごしでしたか」。
浮舟は遠慮しつつも几帳に近寄り「自分はとうに命のないものと思っておりましたが、おかげさまで不思議にも今日まで生きながらえて参りました。
こうまで大切にお世話いただいたご恩はありがたく感じておりますが、やはりこうして生きているのが辛いのです。どうか、私を尼にして下さいませ。生きていたところでもう、普通の、世人の暮らしに戻ることはできない身の上なのです」。
「出家は一生のお約束です。まだお若い身空で、長い将来があるのに、どうしてそんなに思いつめておられるのか。特に女性の人生はいろいろに難しいことが多い。たとえ出家したところで、年月のうちに身を誤り、罪を犯してしまう事もあるのですよ」。
僧都はおそらく多くの出家に立ち会い、その後を見てきたのでしょう。光源氏の若い頃の“雨夜の品定め”にも少し出てきましたが、その時は勢いで出家したものの、ほとぼりが冷めて後悔する人もいっぱいいたはずです。人間ですから、あとから気持ちが変わることもよくある。まして若い人ならなおのことだと、僧都はその点を懸念しています。
しかし浮舟は「私は子供の頃から、何かにつけて物思いの多い人生を送ってきました。母親も、いっそのこと尼にしてしまおうかと考えていたように思います。
成長するにつけ、私自身もそう感じることが多くなり、せめて来世のために祈りを捧げて過ごしたいと思ってきたのです。日増しにその気持ちが強まるのは、病気で体を損なったせいかもしれません。どうか、この願いをお聞き届けくださいまし」。
私の決意は思いつきばったりのものではない、本気で出家を願っているのだと、浮舟は泣きながら訴えます。
チャンスは今しかない! 熱意がついに事態を動かす
それでも僧都は慎重です。(まったく、このように若く美しい女性が、どうしてこうまで世を厭うことになったのだろう。そういえば、祈祷で現れた物の怪も「この人は死にたがってばかりいた」と語っていたな……。
あのままではこの人は確実に死んでいた。放っておくと、また悪い物の怪につけ入れられるかもしれない)。
「なんにしても出家を思い立たれることは、それだけで非常に尊いことです。出家の儀式そのものはすぐにできるが、あいにく私はこれから急いで宮中に参らねばならぬ。
明日から女一の宮さまのご祈祷を開始するが、7日もすれば戻ってこられるでしょう。ですから、儀式はその時に」。
浮舟が真剣なのはわかるが、何と言っても出家は一生の問題。ちょっと頭を冷やして決意が変わらなければその時に、と言うことですが、7日も経てば尼君が帰ってきてしまう。そしたら絶対にダメだと反対されるに違いない!
どう考えてもチャンスは今しかないのです。浮舟は必死に食い下がります。
「いいえ、あの時と同じく、とてもこのまま生きていけそうにありません。このまま重体になってしまったら、その時に出家させていただいたとしても、無意味なことになってしまうでしょう。今日こうしてお目にかかれたのは、私にとっては大変うれしい機会なのですが」。
畳み掛けるように懇願する浮舟に、さすがの僧都も同情。本当はここで休憩してから上京しようと思っていましたが「……そうまでお急ぎになるのなら、今から」と、弟子たちを呼びます。
浮舟は嬉しくなって、はさみを櫛の箱のフタにのせて渡し、美しい黒髪を几帳の隙間から差し出します。
周囲の混乱をよそに粛々と……ついに踏み出した“大きな一歩”
運命のめぐり合わせか、今回僧都のお供をしていたのは、ちょうどあの時最初に浮舟を発見した二人と、一番弟子の阿闍梨でした。阿闍梨も(なるほど、大変な経験をされたお方だけに、やはり普通に生きることは難しいのだろう)と納得し、浮舟の髪をかき出します。
僧都はその黒髪の美しさに、はさみを持ったまましばし手を止めます。彼女の髪を切り落とすのをためらった僧都の一瞬に、ついにここまできた浮舟の紆余曲折と、彼女を愛した人たちの気持ちを見る思いがします。
さて、浮舟を任されていた少将の尼は事態を知って動転。彼女は阿闍梨の妹で、もうひとりの女房も弟子たちとは顔なじみということもあり、おもてなしやらおしゃべりに花を咲かせていた所、女童のこもきが慌てて知らせに来たのです。
少将の尼が見たのは、すでに髪を下ろされ、僧都の法衣や袈裟を形ばかりにまとった浮舟の姿でした。「親御のいらっしゃるほうを向いて拝みなさい」。浮舟は、いまどこに母がいるのかもわからず、ここでまた涙がせき上げてきます。
「お姫様、何ということなさったの! ああ、奥様(尼君)が戻られたらなんと仰るか……こんな突然に、どうして!」。僧都は少将の尼を制し、「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」と浮舟に偈を唱えます。
輪廻の環の中で繰り返し転生している間、人びとは恩愛を断つことができない。だがそれらを捨て出家し、無為に入ることで、真実の恩に報いる者となる……。浮舟は僧都の言葉を口移しに唱えながら、心のなかで(もうとっくに、恩愛は捨ててしまったの)と思いますが、さすがに悲しい。
浮舟の豊かでツヤツヤの髪はうまく切れず、不揃いになってしまいました。「あとで尼たちに直していただきなさい。この美しいお姿を捨てて、後悔なさることのないように」。
しかしすべてを終えた浮舟の心は晴れやかでした。止められるだろうとばかり思っていた出家を、意外なほど早く実行できたこと、何より自分自身で決めたことを成せた、という喜びが彼女の胸を占めていました。
いつも周りの人たちに言われるがまま、されるがままだった彼女は、こんな風に自ら行動し、誰かに強くどうしたいかを訴えたりすること自体が初めてだったはず。自分で決めて行動して、ついに一歩踏み出せた! という気持ちを浮舟は今はじめて味わったのでしょう。その喜びと満足感は非常に大きく、(これだけでも、今まで生きていた甲斐があったわ)とすら思えました。
「私はこれで2度死んだ」感情に見る彼女の成長
僧都一行は上京し、庵は再び静かな夜を迎えました。少将の尼以下、おばさん尼たちは「まあこれからが楽しみだとばかり思っておりましたのに、こんなことをなさって、長い人生をどうするおつもりですの」などと未練がましく言います。
しかし浮舟は「私は今とても安らかな気持ちです。この人生が俗世と交わらなくなって、良かったと思っているの」。いつも不安で、何かや誰かに気兼ねばかりしていた浮舟は、今はじめてこころの平穏を得た喜びに満たされて休みます。
翌日、起き出して気になったのは不揃いな髪の毛。急に短くなったので、ハネたりバラバラする感じがどうにも嫌ですが、反対を押し切って決行しただけに、少将の尼に「毛先を綺麗にして」とも言いづらい。
(こんな時、文句を言わず手伝ってくれる人がいたらなあ)。随分強くなった浮舟ですが、自分の気持ちをハキハキ言うタイプではないので、気持ちを吐き出すのはもっぱら紙の上ばかりです。
「なきものに身をも人をも思ひつつ 捨ててし世をぞさらに捨てつる」
「限りぞと思ひなりにし世の中を かえすがえすも背きぬるかな」
もうとっくに失くしたものと思っていた自分も人も、そして捨てたはずの世の中も、私は更に捨て去った。これまでだと思った世の中に、こうしてまた背を向けた――。いつも所在なく不安で、物悲しいムードに満たされていた彼女ですが、この出家のシーンでは3度も「嬉しい」が出てきます。(僧都に出家を頼み込むセリフの中、出家をOKされた後はさみを差し出す時、儀式が終わったあと)。
決めたことはいえやはり悲しいし、親不孝をしてしまったという気持ちもある。それでも、彼女はやっと「嬉しい」、ああこれでよかった、こうして良かった、と思うことができたのです。嬉しいにもさまざまありますが、彼女がここで初めて、勇気を出して自ら行動したこと、そこで味わった大きな喜びは、何ものにも代えがたいものすごいボリュームだったように思います。
文字通り死線を越えた浮舟は、自らの言うようにこうして再び世を捨てました。何も決められず、いつもウジウジメソメソしてばかりだった彼女が、今や自分で決断し、周囲に「私はこれで良かったと思う」と言えるようになった。ものすごく辛かったけど頑張ったよ、やったね! と言ってあげたくなります。
同じ頃、京で薫や匂宮は新しいターゲットを巡り恋のさやあてに勤しんでいます。ふたりが死んだとばかり思っているその女は、彼らの知らないところで変貌し、大きな一歩を踏み出していたのです。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
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