帰ってくるなり不機嫌…情緒不安定な夫の八つ当たり
薫の想い人として宇治で静かに暮らしていた浮舟を、突如襲った匂宮。不可抗力だったとは言え、姉・中の君と夫・薫へを裏切ってしまったことに泣く彼女でしたが、ともに時間を過ごすうち、匂宮の情熱に刺激されていきます。しかし時はまたたく間に過ぎ、宮は泣く泣く二条院に帰り着きました。
宮は中の君が薫と示しあわせて浮舟の存在を明かさなかった事が恨めしく、自室でふて寝。でも悶々として眠れず、独りでいると苦しいばかり。仕方なく中の君の部屋にやってきました。原文では「心弱く」とあります。あまり独りで抱え込めないタイプ。
何も知らない中の君は、いつも通りの美しい姿です。(やっぱり浮舟よりは一段上だな。でも彼女は何とも言えず可愛くて……)。まだふたりが姉妹と知らぬ宮は、浮舟を想いだして胸がつまり、妻のベッドに横になります。
続けて入ってきた中の君に「なんだかひどく気分が悪くて。この先どうなるんだろうとやけに心細いんだ……もしオレが先立つような事があれば、君は自由だ。薫も願ったり叶ったりだろうさ」。
移り香事件以降、何かにつけてこのネタで嫌味を言われている中の君は(お出かけ中に、誰かがあらぬ噂を告げでもしたのだろうか)と思い「どうしてそんな。薫の君のお耳に入ったらどうしますか」とそっぽを向きます。
いつもの匂宮なら冗談に紛らわして終わるところですが、今日は事情が違いました。彼は真面目に「オレは本気だ! オレは君にとってどうでもいい存在か? 世間だってびっくりするほど君を大事にしているというのに。
でも君はいつだって、誰かさんと比べてオレを下に見て、信用できないと思ってる! まあそれも運命というものなのだろうけどね、君がオレに隠し事をしている事が許せないんだよ!!」
なんだかお門違いの八つ当たりのようにしか聞こえませんが、宮は自分の口をついて出た“運命”と言う言葉にハッとします。(そうだ、オレが浮舟を追って宇治まで探し求めたことも、やっぱり運命、前世からの縁というやつなんだろうな……)。
いつになく思いつめた様子の夫に、中の君は掛ける言葉も見つかりません。まさか異母妹と関係を結んできて、そのせいで情緒不安定になっているなどとはつゆ知らず、自分に対するどんなひどい噂を聞いたのだろうと、そっちの方に考えて気を揉みます。
「あいつと比べてオレは……」寝取った後の気まずい対面
宮はこうしてふさぎ込み、宮中にも顔を出さなかったので、母の中宮から心配する手紙が届きます。心配をかけるのは心苦しいながらも、人と会う気になれない宮は引きこもり。まるで病気のようだと言うので、貴族たちが続々と見舞いに詰めかけます。その日の夕方、薫もやってきました。
薫の顔を見るだけで、宮は胸がドキドキ。彼の問いにも言葉少なに答えながら(聖人君子が板につきすぎて、あんな可愛い女を山の中に長いこと放っておくのに、何の痛みも感じないのか、こいつ……)。
今までどんなことも打ち割って話し合ってきた親友。今度のことだって「真面目人間の正体を見破ったぞ!」とか言ってばらしても良さそうなものですが、今回ばかりはどうにも茶化せない。沈鬱な面持ちで冗談すらも言わない宮に、薫も常とは違うものを感じ、心からのお見舞いを言って、早々に引き上げます。
(相変わらず出来た男だな……浮舟は、あいつとオレと比べてどう思うのだろう)。いつもの軽い浮気とも違う狂おしい浮舟への想いに、中の君さえ退けて、独り自室に引きこもる日々が続きます。
「私はなんて嫌な女」彼女が急にオトナになった理由
石山詣でが中止になった宇治では、再び退屈な日々が続いていました。初瀬・清水などと並ぶ当時の貴族のお出かけスポットとして人気の石山寺だけに、女房たちもみな楽しみにしていたのですが、せっかくの準備も水の泡。いよいよすることもなく、暇を持て余しています。
匂宮からの手紙は、乳兄弟の時方の部下のうち、事情を知らないものが右近に宛ててちょくちょく届けにきます。「ずいぶんマメにラブレターが来るのね」という同僚の言葉に、右近は「ちょっと昔の知り合いでね。偶然、殿(薫)にお仕えしているそうで、よりを戻さないかってしつこくて……」。嘘に嘘を重ねる生活が続きます。
「逢いたいが、そっちへ行くのは到底無理だ。君と別れて以来、他の女達とは誰とも逢っていない。君だけだ。もう恋しさで死んでしまいそうな気がする……」こんな宮からの長い長い手紙がひっきりなしに届く中、ついに薫がやってきました。「長く来られなくてごめんね」。
久しぶりに見る薫の洗練された佇まい、言葉少なながらも誠意のこもった優しい言葉。(私はもう殿にお目にかかる資格がないのに)と、浮舟は罪の意識に震えます。まるで空に目があって、そこから咎められているような気分です。
今までならなんでもなかった薫との時間も、今となっては針のむしろ。一方で薫とは違う、もの狂おしいほどの宮の様子が蘇り(私が、こうして殿と何食わぬ顔で過ごしているとお聞きになったら、どう思われるだろう。宮さまは、他の女性とは誰とも逢っていないと仰って、実際それは本当らしい……)。
しかし「愛してる」「もう君以外考えられない」と繰り返す宮の情熱とは違う、薫のしずかで落ち着いた物腰や、一つ一つの言葉の深み。しみじみとその優しさを感じると、一時の恋のアバンチュールはともかく、将来を考えれば末永く一緒にいたいのは間違いなくこちらだろう、と思われます。
(私と宮さまの不倫を知ったら、この奥ゆかしい優しい方をどれほど傷つけるだろう。でも、殿とご一緒しながら心のなかでは、絶えず宮さまと比較しているなんて。ああ、この事が殿に知れて嫌われてしまったら、私は……)。
いつもはあどけなくおっとりとしていた浮舟が、今日はひどく悩ましげ。薫は(しばらく会いに来なかったせいで、色々な物思いをして心に深みが出たのだろう。ぐっと大人っぽくなった)。皮肉にも、不倫の苦しみを抱えて心が成長する流れは、薫を妊娠した時の女三の宮の様子にそっくりです。
「あなたのお家がだんだん出来てきているよ。先日見に行ったけど、ここよりもっと穏やかな川がそばにあって、花も楽しめるだろう。三条邸とも近いから、毎日会えるよ。春になったら引っ越せるようにしよう。だからあまり心配しないで」。
その言葉に、浮舟は(宮さまも適当な隠れ家を用意すると仰っていた。でもたとえ宮さまがそのおつもりでも、私は絶対にそちらにはいけない。宮さまにはもうお会いできない……)。
でも、こう思ったその瞬間から、宮の姿が目の前にちらついてしまう。(ああ、嫌な私!こんな事考えちゃいけないのに!)浮舟はついに泣き出してしまいます。
「どうしたの? 誰かになにかひどいことを言われたの?」いつもは穏やかな浮舟にしては珍しいと、薫は彼女を慰めながら共に夕月を眺めます。しかし彼の胸には大君、そして彼女の胸には匂宮。ああ、何という虚しさ。
「宇治橋の長き契りは朽ちせじを 危ぶむ方に心騒ぐな」私の気持ちは宇治橋のようにしっかりしている、そんなに不安がらないで。いまに私の言う意味がわかるはずだよ、と薫。
「絶え間のみ世には危ふき宇治橋を 朽ちせぬものとなほ頼めとや」宇治橋の橋板は所々隙間だらけなのに、それと同じく時々にしかいらっしゃらないあなたを、安心して頼りなさいと仰るのですか?
浮舟の言うように、途絶えた隙間には危険がいっぱい。すでに匂宮という魔が差してしまっているのに、情事に疎い薫は何もわかっていません。その出生から今に至るまで、あらゆる意味で薫は真の悲劇の主人公と言えそうな気がします。
浮舟の変貌をポジティブにとらえ、このまま離れがたいと思いつつも、今すぐ京に迎えると世間がうるさいという理由で、薫は早朝に帰っていきます。親友と彼女の変化が同じところからきているなどとは、この時の彼はまだ思ってもみなかったのです。
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