「お母さん、来られたよ。」
母は嬉しそうに僕たちを抱きしめた。
そしてお母さんは泣いていた。
僕には泣いている意味が分からない。妹もきっと同じだ。
お母さんが泣いている顔を見て、僕たちは顔を見合わせていた。
「ここがあんたたちの家よ。おかえり。」
僕たちは玄関に突っ立って、どうしたらいいか分からなかった。
奥の部屋から赤ちゃんを連れて知らない男の人が出て来る。
「こんにちは。お父さんです。」
そしてこれが弟だよ、そう言って赤ちゃんの顔を見せようとする。
妹はそっぽを向いて、玄関の小窓から見える曇った空を見ているようだった。
「こんにちは。」
僕があいさつをすると、お母さんは嬉しそうに褒めてくれた。
お父さんだという人も、偉い偉いと笑っていた。
妹はまだ喋れない。
僕たちはもうすぐ揃って小学生になる。何度言葉を教えられても、妹は喋らなかった。
字は少しだけ書けるが、僕が書いている横で真似することはできても、ひとりになると書けなくなる。
うん、も嫌だも言えない妹に、両親は日に日に苛立っていたと思う。
それは僕にもわかっていた。
入学式もさんざんだった。名前を呼ばれて返事をしなきゃいけない場面で、妹は緊張とパニックのあまりギィーっと叫んで、お漏らしをしてしまった。
僕は新品のハンカチで、床に広がるおしっこを一生懸命ふき取っていたと思う。
新しいお父さんはだんだん僕たち兄妹とは距離を取って接するようになっていた。
お母さんは必死に妹のことを理解しようと頑張っていたけれど、まだ赤ちゃんの弟が泣き出すと、弟の方に走って行ってしまう。
妹はそれをじっと見て、チャッ、チャッと口の中で音を鳴らしては顔をしかめていた。
そういう顔を新しいお父さんが見ると、何も言わないけれどとても嫌な顔をする。
そういう時いつも僕はそのお父さんの顔が怖くて、妹の口を触って止めさせようとした。
「こいつは犬以下だな」
と言われたのは夏休みのある日。
お母さんと新しいお父さんは最近仲が悪い。いつもケンカしている。
僕たちのせいかもしれないと思っている。
「みずき!これはなに?言えるでしょ、言って、言ってごらん。」
妹は両親と僕の顔を交互に見比べる。
「言わなきゃ。犬って言われるよ。僕たちまた嫌われるよ!」
僕は必死で妹にパジャマに描かれているキツネを見せて繰り返し聞く。
「き、つ、ね。みずき、言って!」
「・…きぃ」
「き、つ、ね」
「んき…」
僕はお父さんが喋らない妹と、懐かずに妹ばかり構っている僕を疎んじているのはわかっていた。
実の親であるお母さんだって、僕たちを持て余していると思う。
妹が時々こっそり、まだ赤ちゃんの弟を叩いたり、おもちゃを取り上げたり、足をつねったりしていることも知っていた。
そんな時妹はいつも、口の中をチャッチャッと鳴らして眉間にしわを寄せていた。
だから僕たちは二人の部屋で一緒に眠る時、こっそりと言葉の練習をしていた。
妹が話せるようになれば、お母さんはきっと喜ぶ。新しいお父さんも少しは優しくしてくれるかもしれない。
「ほら、やっぱり話せないじゃないか。こいつはどっかおかしいんだよ。喋れないくせに嫌な顔で舌打ちだけは出来る。不気味なんだよ。」
新しいお父さんはまた怒鳴り始めた。お母さんはまた泣きながら怒る。
その日の晩は僕たちを部屋に行かせたあとも明け方までケンカしている声が聞こえた。
僕たちは眠れずに天井のオレンジの電球だけを見つめて、手を繋いでいた。
妹は僕と手を繋いでいないと眠れないのだ。施設に居る時からずっとそうだった。
「怖いね。」
妹に話しかけて妹の顔を見る。
妹は学校でもバカと言われていじめられている。家でもお父さんに犬と呼ばれている。
喋れないけど、言われていることはわかるのに、みんな妹のことを馬鹿にして好き勝手言う。
お母さんは僕たちに優しくしてくれるが、分からない。
施設に居る時だって、先生たちは優しかった。それと一体何が違うんだろうか。
お母さんのところで暮らすのよ、よかったわね、と園長先生が嬉しそうにしていたけど、僕たちは意味が分からなかった。
施設に居た頃は、自分より小さな子には妹も優しかった。
少なくとも意地悪をしたりはしなかった。ご飯も僕よりたくさん食べたし、よく笑った。
だけど今は家でもご飯を少し食べたら立って逃げ出してしまう。
給食もなかなか食べられずに毎日ベソを書きながら掃除中でも食べ続けている。
学校の友達にからかわれても言うい返せずに、泣いている妹を見るのも、家の中で食卓につきたくなくて逃げ回っている妹を見るのもたくさんだった。
お母さんと暮らしているのに、妹は全然嬉しそうではない。
「逃げる?」
僕は妹に聞いた。妹は黙って頷いた。
僕はリュックを取り出して、学校の宿題や服を詰め込んだ。
本当はランドセルも持っていこうかと思ったけど、妹が嫌がったので諦めた。
妹は学校を思い出したくないみたいだった。
セミの鳴き声がうるさかった。
僕は妹の手を引いて、まだ慣れない道を歩き続けている。
さっきまで少し涼しかったのに、今ではもうカンカン照りで汗まみれだ。
妹がしゃがみ込む。僕を凄い目で見つめた後、泣き出した。
帰る?と言おうとしたが、きっと妹にも僕にも本当に帰るところなんかないことに気が付いた。
「泣くな。行くよ」
妹は僕の手を握って、立ち上がった。
行くところがなくて、公園にいるしかなかった。
妹はもう泣いていない。今泣きたいのは、僕の方だ。
さっきからずっと妹は楽しそうに泥団子を作っている。
ぴかぴかの泥団子はもう4つ目だ。
「ここがいい?ここが楽しいの?」
妹は大きな声で泥だらけに手をあげて万歳しながらジャンプした。
「わんっ」
その後ろで太陽が沈みかけている。
もうすぐ大人たちは僕たちを見つけ出すだろう。
きっとお母さんはまた泣きながら僕たちを抱きしめるんだと思う。
僕は知っている。
妹が本当は喋れることも。
僕たちがどんなに頑張っても、逃げられないことも。