採用試験には今年も受からなかった。
どうして私にはこんなにもいいことがないのか。
自分でも困っている。何をやっても、何を選んでもうまくいかない。
慎重に、真面目に、神経を尖らせれば尖らせるほどうまくいかない。
一事が万事この調子だ。
この前買い換えたばかりの冷蔵庫すら、買って数日で不具合を起こした。
冷蔵庫の中の食品が腐っていて苛立ちながらゴミ箱に叩きつけて、そのまま台所にしゃがみこんで、暫く立てなかった。
「お前が腐っているからだ」
そんな風に言われている気がして堪らなくなったのだ。
自分の中の、”こうありたい”と願うビジョンは日に日に崩れていっている。
なぁんにも、ない。
時々、私にしか聞こえない音がする。
パキン、という音がする。
きっとこれは私の理想のビジョンが壊れる音だ。
「先生、なんか変だよ。」
非常勤の若い女教師とセックスをする間柄なのに、彼は無邪気だ。
18歳の高校生なのだ、当然だ。
彼にとって私が、初めての女だった。
黙っているけれど、私にとってもこの子が、教え子が、初めての男だ。
賢い子だけれど、私の慢性的憂鬱に気が付くほどは大人じゃない。
イヤホンを片耳に突っ込んで、ウォークマンで何やら音楽を聴いている。
こんなに採用試験に落ち続けるとも思わなかったが、教え子に手を出すような教師になるなどとは、もっと思わなかった。
彼が夏休み中に当番をしている私に質問をしに来たのが始まりだったと思う。
私に話しかける生徒など今まで一人もいなかったから、私は舞い上がった。
「先生の授業分かりやすいから、模試の英語の成績上がったんです。」
「どうやったらこんな風にキレイに和訳できるの?」
「先生の字、きれいですね。」
「先生、今日も綺麗ですね。先生は僕の憧れだから。」
大人の私より、まだ思春期の彼の方が巧みだった。
孤独で、地味で退屈な女の心の隙間に、するりと入ってきた。
私はそれを拒む術もなく、彼が憧れと称する好奇心を簡単に受け入れた。
これが愛なら、愛は薄汚れている。正しさも、ない。
だけどこれが愛じゃなかったら、愛は一体どんな姿かたちをしているのか。
「今日の先生、なんか変だよ。」
「先生って、なんか変よね、こんな姿で。」
「だって、先生は先生じゃんか。」
パンツ一枚の姿だった彼は、制服のスラックスを履きながら答える。
裸のままシーツに包まる私は黙ってそれを見詰める。
先生は先生、それこそが彼の本心なのだと思う。
彼に罪は無い。私が教育者として、いや大人として、間違っている。
間違ったり、失敗することをひどく恐れていながら、今ではその間違いにのめり込んでいる自分がいる。
彼を見送り、鞄の中からドラッグストアの紙袋を取り出す。
来るべきものが、もう二か月も来ていない。
便器に座り、パンツを下ろしたままの姿でも、妊娠検査薬の箱の裏の取扱説明書さえも全て読まなければ気が済まない。
何駅も先の、知らない駅のドラッグストアでこそこそと検査薬を買った。
そんな自分が情けない。
ルールから逸脱するのが怖い癖に何一つうまく行かない、人からの視線や評価が気になって仕方がない。
その結果、詰まらないミスや後悔をする。
トイレから出て、検査薬を握りしめたまま再びゴミ箱から漁ってきた箱の裏面を再度確かめる。
検査薬を握る手に力が入る。
パキン。
どこかで聞いたことのある音がして、検査薬は私の手の中で折れた。
もたれかかったベッドから、何やら小さな音がする。
乱れたままのベッドをまさぐって音の源を探す。
ベッドには教え子の温もりは全く残っていない。
彼のウォークマンは彼に忘れられ、人知れず、ここでずっと鳴っていたようだ。
やっと引っ張り出したウォークマンのイヤホンを耳に入れる。
愛なんかなくても私は孤独だった。
愛のようなものを知っても、やっぱり私は孤独だった。
いや、余計に、孤独になったかもしれない。
腹を撫でる。
何も感じない。昨日までと、さっきまでと何も変わっていない。
世間一般における幸福の一つであるはずなのに、こんなにも無味無臭なのか。
命を授かるなんて大それたことが、何もない私の身に起こるはずがないと思っていた。
不思議なぐらい心は静かで、動揺もしていない。
持ち主に忘れられて、人知れず鳴り続けていた音楽が、今は私という聞き手の為に鳴っている。
彼はあと数か月すれば卒業していくだろう。
優秀な彼はきっと有名大学に合格して、華やかな大学生活を始めるのだ。
次の夏が来るよりも早く、私のことなんて忘れてしまう。
私とは無関係の人生が、続いていくのだ。
「こんにちは、いや、はじめまして、か」
腹を撫でて、呟いても、実感はない。
また間違っているかもしれない。
だけどようやく、私を包んで凝り固まった孤独に一筋のヒビが入った気がしている。
パキン、という音が聞こえたのだ。