REDEARTH
「泣くな、行くよ。」
手を引いて前だけ向いて兄ちゃんは私の手を引いてグングン歩いていく。
私は泣きながらも、兄ちゃんがいればそれでいいのだと痛いほどに感じていた。
人生初の家出が怖いから泣いていたのではない。
私がいくらメソメソしても、この人だけは、兄だけは、私の手を離さないということを確かめたかった。
そして、私の予想通り、兄は手を離さなかった。
大人になって恋もした、恋人も出来た。
でも男の人たちは私を持て余し、最後はいつも逃げるように去っていった。
そういう時にはいつも兄を思い出した。
兄だけは私を手放さなかった。
知らない街の知らないCDショップに来ている。
一枚のCDに目を留める。
ジャケットの写真の目がこちらを向いている。私のダメさを見られているようだ。
ついCDジャケットを裏返しにしてしまった。
昨晩まで暮らしていた街の匂いがまだ私に染みついていて、臭い。
腹が減った。風呂にも入りたい。
いや、やっぱり私が酒臭いのだ。
夏はまだ終わらない。暦では秋なのに、暦すらあてにならない。
あと数日で21歳になる。
大人になりたかったはずが、大人になって一年経った今も私はなんだか、臭い。
店員が私の横でさっき裏返したはずのCDを表に返す。
彼は仕事をしているだけなのに、憎たらしい。
またあの目が私を見ている。
「本当に、まじで、何?」
悪態をついたところで、傍で何やらしていた店員が私を見る。
お前もか。酔っ払っているから、舌打ちもうまく出来ない。
車に戻ってカーステレオに真新しいCDを入れる。
所持金はさっきまで4672円だった。
そして今はいくらになったか、考えたくもない。
飯も食えないし、風呂にも何日も入っていない。
さっき酒気帯びで捕まって、ついに免停になってしまった。
家も、ない。
なんでそんな私がCDなんか買ってしまったのか。
「馬鹿すぎ。」
家族のいる家にも帰りたくない、というか帰れない。
恋人の家に暮らしていたが、ついに追い出されてしまった。
世話になっていた店も、気に食わない客を殺しかけてクビになった。
そこそこ貯めていたはずの金も、その罰金でパァになった。
小学校の時の通知表に、
「知能に情緒が追いついておらず、自我がコントロール出来ない時があり非常に危険」
と書かれたのを何故かこの頃頻繁に思い出す。
あのクソが書いた忌々しい保護者へのメッセージはあながち間違えではなかったのかもしれない。
我慢も出来なければ、優しくも出来ない。
怖いものなんてないけれど、強いて言うならば自分のことが一番怖い。
人のことなんて好きにもなれなければ、相手にもしたくない。
世界の中心は私であってほしい。
同じところにじっとしていることも出来ないし、同じことの繰り返しにも我慢がならない。
誰かのアドバイスなんてもう勘弁してほしい。
昨日は空気が読めない熱帯夜のせいで寝苦しかった。
金のない私は車中でエンジンを止めて、窓を開けて眠るしかないのだ。
汗の匂いが充満してガス室より地獄だ。
その体臭に誘われてやってくる蚊たちに体中喰われながら無理やり目を瞑る。
掻いても掻いても次にまた別のところが痒くなる。
長いスカルプはボロボロで、爪の中はゴミと垢だらけだ。
私の心よりかはマシかもしれない。だけどやっぱり汚い。
開けた窓から裸足の足を放り出して、熱い空気の隙間に吹くぬるい風を探していた。
湿ったものに撫でられる感触に驚いて、足を引っ込め体を起こす。
窓の外にはホームレスがひとり。下半身を丸出しにして萎びたものを握ったまま立ち尽くしている。
蹴るようにドアを開けて怒鳴りながら外に出る。
襲い掛かるとはこの時の為にあった言葉である。
ホームレスの萎びたものを蹴り飛ばし、そこからはもう覚えてない。
ふがふが言いながら涙を流し、失禁するホームレスをひき殺そうと、再び運転席に座ったところで我に返った。
車から降りて、ホームレスの荷物を探る。くしゃくしゃの千円札を見つけて胸元に突っ込む。
そのはずみに胸元からライターが転げ落ちる。
私をクビにした店の名前が印刷されている。
「いつかお前は人殺しになるよ。」
ライターを見て、店長から言われた最後の言葉を思い出した。
そうですか、としか言えなかった私はやはり頭がおかしいのだろうか。
ただ、私は自由になりたかった。
ただ、楽しく、自分の思い通りに生きていきたいだけだった。
出来ればだれかと仲良くしたかった。
出来れば真っ当な温もりとかに包まれてみたかった。
覚えているのは昨日の自分の激情だけ。
考えたり、思い出すのは諦めて、カーステレオから吐き出される歌に耳を傾ける。
消えない。私の心の汚れは何回洗っても消えない。
血が出るほどこすっても、消えない。
口の中に入り込んでくる水の正体は、懐かしい涙だ。
泣くものか、負けるものか、と毎晩自分に言い聞かせてきた。
昼間起きているのはとても怖いから、昼間には眠っていられる生活をした。
恐ろしい恐ろしい朝が来る前に気絶するために、夜のうちに酒を呑み続ける生活を選んだ。
また目を瞑る。今の自分の頭は役立たずなのに、また思い出そうとする。
どうせ答えも分からないし、正しさも見いだせないのに考えようとする。
いいことなんて全然なかった。
子供の頃に兄と家出したことを思い出す。
兄が居た頃の私は、こんな風じゃなかった。
家族からも浮き、友達も居なかった子供時代に私たち兄妹は、それぞれが物語を書いて交換して読んだり、でたらめな歌を作って一緒に歌って遊んだ。
家出した日も、公園でいつもと変わらぬそんな遊びをして朝がやってくるのを待った。
私たちだけの物語と、私たちだけの歌があったから、あの時は朝が来るのは怖くなかった。
兄は万能で、私の神だった。
兄ちゃん、兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん。
兄ちゃん、兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん。
兄ちゃん、兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん。
答えて欲しい。答えてくれないと困る。早く、早く、早く。
こんなところまで来てしまった。これからどこに向かうのか、私には分からない。
もう一度手を引いて、連れて行って欲しい。どこに?分からないけれど、兄ちゃんが連れて行ってくれる場所ならば、どんな地獄でも構わない。
兄ちゃんの見せてくれる地獄は、きっと天国に違いない。
悪い葉っぱに魅せられた孤独な少年は、今どんな大人に、どんな21歳になろうとしているのか。
「兄ちゃん、私たちの歌ずっと探しよったんじゃあ、私。心が千切れそうやった。一緒に作った物語も、一緒に作った歌も、もう全部思い出せん。もう一回思い出したら昼も夜も怖くないと思うんよ。見つけたんよ。多分、まちがっちょるかもしれんけど、お願いじゃけぇ。」
「あああああああああああああああああ、もう、もう、死にたいのに、生きたい、兄ちゃんのところに行きたいし、生きたい。幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい。」
運転席で三角座りをして、私は、兄と家出したあの日のようにめそめそと泣き続けた。
この街には少年時代の兄が入っていた少年院がある。
警察の車に乗せられるガリガリの兄の背中しか覚えていない。
幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい、そして、生きていきたい。
私たち兄妹のための歌は私の隣で鳴り続けている。