前回の文学編に続き、日本で今年4月28日から5月21日の間にサンフランシスコ講和条約に基づく戦時加算を含めた著作権の保護期間が満了する海外の先人たちを紹介します。今回紹介する3名とも創作活動を行っていた時期は第二次世界大戦の開戦前が中心のため、戦時加算の満了は5月21日付となり翌日の5月22日から日本での生前の著作の利用が“自由化”される予定です。
日本で2015年4~5月に著作権保護期間が満了する海外の先人たち・前編【文学編】 - ガジェット通信
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アンリ・マティス(フランス・画家、1869-1954)
1869年、フランス北部のノール県に生まれる。美術学校を受験して不合格となるも、教官を務めていたギュスターヴ・モロー(1826-1898)に見出されて描画の指導を個人的に受ける幸運に恵まれる。1896年、国民美術協会展に出品した4点の絵画のうち『読書の女』が政府買い上げとなる。初期は写実主義を採っていたが後にゴッホやゴーギャンら新印象主義派の影響で原色、特に緑色にこだわる独特の作風を確立する。晩年は体力の衰えもあり、絵筆の代わりにハサミを使い切り絵で多くの作品を発表した。
1954年11月3日、ニースで死去。84歳。代表作の『赤のハーモニー』(1908年)や『ダンス』(1909-10年)を始め、多くの作品がロシアのエルミタージュ美術館所蔵となっている。
チャールズ・アイヴズ(米国・作曲家、1874-1954)
1874年、コネチカット州に生まれる。イェール大学で作曲技法を学んだ後、保険会社に就職するが後に友人らと共同で新会社を起業し副社長を務めた。その傍らで趣味として作曲を続け、ニューヨークで教会のオルガン奏者を務めていたが心臓発作の症状に悩まされる。
晩年に持病が悪化するまで膨大な点数の作曲を行ったが、若い頃はその作品が注目を集めることは無かった。本人もそれを自覚しており作曲は飽くまで「本業ではなく趣味」と割り切っていたが、1940年にルー・ハリソン(1917-2003)の熱心な説得を受けて1904年作曲の『交響曲第3番』が1946年に上演されると一躍世間の注目を浴びるようになる。しかし、アイヴズ自身は至って謙虚な姿勢で、自分の過去の作品を発掘したお礼としてピューリッツァー賞音楽部門の賞金の半分をハリソンに贈与した。
1954年5月19日、ニューヨークで死去。79歳。現在でこそ再評価され「アメリカ現代音楽のパイオニア」と評されているが、作曲活動を精力的に行っていた時期は無名に等しかったこともあり没後に発見された楽譜も少なくない。
ジャン・ロジェ=デュカス(フランス・作曲家、1873-1954)
1873年、フランス南西部のジロンド県に生まれる。パリ音楽院でガブリエル・ユルバン・フォーレ(1845-1924)に師事し、そのまま後任の作曲科教授に就任した。日本では同時代の作曲家であるポール・デュカス(1865-1935)とはしばしば混同ないし親族と誤解されるが、両者は姓の綴りが異なっており(Jean Roger-DucasseとPaul Dukas)、特に血縁関係は存在していない。
代表作に『フランス組曲』(1907年)や交響詩『フランスの市場』(1914年)、『ユリシーズとセイレーン』(1937年)など。
画像:アンリ・マティス