これまで4回にわたって今月末で著作権保護期間を満了し、生前の著作が“自由化”される先人たちを分野ごとに紹介してきましたが、最終回となる今回は実業および学術分野の先人たちを紹介します。
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2014・その1【日本文学編】
http://getnews.jp/archives/711260 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2014・その2【海外文学編】
http://getnews.jp/archives/712251 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2014・その3【美術・建築編】
http://getnews.jp/archives/713344 [リンク]
今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2014・その4【音楽編】
http://getnews.jp/archives/713876 [リンク]
第1回でも既に述べましたが、来年は環太平洋経済連携協定(TPP)や日本とEUの経済連携協定(日欧EPA)の情勢次第では年末にこの企画を行うこと自体が不可能になる可能性があります。まもなく訪れる2015年はこれまで当然のように受け止められて来た「著作権保護期間は有限であり、法律で定められた期限を満了した先人の著作物は“自由化”される」ことの意義を改めて確認すると共に、その文化的・学術的な有用性はごく少数の巨大なコンテンツ・ホルダーの権益に劣後するものであると言うここ数十年来の「常識」として欧米が全世界に対して押し付けて来た結論が本当に正しいのかどうか、日本から問い直す1年であって欲しいと強く願います。
レイチェル・カーソン(アメリカ合衆国・1907-1964、代表作『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』)
アメリカ合衆国(米国)の生物学者。ペンシルベニア州出身。ジョンズ・ホプキンス大学大学院修了後、米国政府連邦漁業局に勤務し、1941年に海鳥や魚の生態を克明な筆致で描写した『潮風の下で』が高い評価を得る。1962年から『ニューヨーカー』に連載した『沈黙の春』は、当時後半に使用されていた有機塩素系殺虫剤のDDTを始めとする自然界に存在しない化学物質の拡散が深刻な生態系の破壊を引き起こしていると告発する内容で大きな社会的反響を引き起こし、環境保護局創設や化学物質規制の強化など米国政府の環境対策を大きく変革する要因につながったと言われる。
1964年、がんのため56歳で死去。遺作『センス・オブ・ワンダー』は亡くなった姪から養子として引き取った男児の成長を記録したエッセイ作品で、2008年に『レイチェル・カーソンの感性の森』の表題で映画化されている。
米国は戦時加算対象国のため、1941年刊の『潮風の下で』(現行法下では満期の10年と142日)や1951年刊の『海辺』(1年と118日)は戦時加算対象だが代表作の『沈黙の春』や『センス・オブ・ワンダー』はサンフランシスコ講和条約発効の翌1953年以降の発表であるため、戦時加算の対象にはならない。なお、米国の現行法でカーソンを始め1964年に亡くなった個人著作者の著作権保護期間が満了するのは没後95年目に当たる2059年末の予定である(1923~38年に公表された作品の場合は公表後120年目に当たる2043~58年の間に満了の可能性がある)。
川村多実二(1883-1964、代表作『鳥の歌の科学』『野鳥雑詠』)
動物学者。岡山県出身。東京帝国大学を卒業後、京都帝国大学動物学教室の開設に尽力し米国のコーネル大学に2年間留学する。帰国後は動物生態学を専攻し、特に淡水棲動物の生態研究で業績を挙げるが一般向けでは1947年(昭和22年)刊の『鳥の歌の科学』など鳥類に関する解説書で有名であった。
1963年(昭和38年)、京都市名誉市民。歌人としても活動し、没後に歌集『野鳥雑詠』が刊行された。
光田健輔(1876-1964、代表作『愛生園日記』)
医学者。山口県出身。上京後に入学した済生学舎では野口英世と同期だったことで知られる。東京帝国大学医学部を経て東京市養育院(東京都健康長寿医療センターの前身)の回春室(ハンセン病患者専用病棟)付き医師となる。1930年(昭和5年)、岡山県に開設された国立療養所長島愛生園の初代園長に就任。
1943年(昭和18年)に米国でハンセン病特効薬のプロミンが開発され、戦後まもなく日本でも患者への投与が開始されたにも関わらず光田は戦前から行われて来た患者の隔離政策に固執し、1907年(明治40年)に制定されたらい予防法の強化を推進した。同法を根拠とする強制隔離政策の不当性に対しては2001年(平成13年)に熊本地方裁判所で元入所者の訴えを全面的に認める判決が下され、判決を受けて政府の公式謝罪が行われると共にらい予防法は廃止されている。
生前は「ハンセン病患者救済の先駆者」と評され1951年(昭和26年)には「社会貢献」を理由に文化勲章を受章しているが、現在ではプロミンによる治療が確立されて以降も非人道的な患者の強制隔離を推進したとして否定的評価が下されている。主な著書に『回春病室』(朝日新聞社、1950年)と『愛生園日記』(毎日新聞社、1958年)があるが、このうち『回春病室』については光田の執筆でなく朝日新聞記者の藤本浩一と長島愛生園の医師であった内田守が実作者であることが明らかになっている。『青空文庫』では、長島愛生園の医師・小川正子(1902-1943)の著書で映画化(の結果、強制隔離政策のプロパガンダに利用)された『小島の春』の序文が作業リストに登録されている。
堤康次郎(1889-1964、代表作『日露財政比較論』『叱る』)
西武グループ創業者。滋賀県出身。早稲田大学を卒業後、政治評論誌『新日本』の創刊を始め様々な事業に手を出すも失敗続きで、最後に望みを託した軽井沢の不動産開発で財をなし続いて箱根の開発に乗り出す。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で郷里の滋賀県から出馬して初当選し以後公職追放中の中断を挟んで衆議院議員を13期務める。
戦後は大政翼賛会推薦議員として「国策への協力」を口実に自身が経営する西武農業鉄道(現在の西武鉄道)への利益誘導を図ったとして公職追放処分を受けるが、処分解除後の1952年(昭和27年)に行われた第25回総選挙に改進党公認で当選して国政に復帰。翌1953年(昭和28年)、第44代衆議院議長に就任した。1964年(昭和39年)、同年開催の東京オリンピックを控えて建設を指揮した東京プリンスホテルの完成を見ることなく4月26日に亡くなった。
著書に早稲田大学を卒業した翌年に書いた『日露財政比較論』(博文館、1914年)や遺作となった自叙伝『叱る』(有紀書房、1964年)がある。また、1956年(昭和31年)7月に日本経済新聞『私の履歴書』を連載した。
画像:レイチェル・カーソン(1940年撮影)
画像ソース‥米国政府魚類野生生物局・国立デジタルライブラリー(U.S. Fish and Wildlife Service, National Digital Library)所蔵
http://digitalmedia.fws.gov/