【どこへ行くTHEニッポン】核家族から核分裂家族の時代へ、そこからのネット世論強大化時代突入とネット隣組、からの前提にあるネット共感時代の考察からの〜

  by 森井聖大  Tags :  

いやー考えちゃいますね。
9月10日、チャンネル桜主催のデモがあるみたいですね。

http://www.youtube.com/embed/0n-7tiMxbZ8
この動画を見て、あれ日本を忘れたテレビ局ってNHKか……、たしかフジテレビが何とかかんとかってよく2chでネトウヨとかが言っていたはずだし、同じじゃないかってビックリした。でもよくよく考えたら、確かに他のチャンネル桜の動画(パチンコ撲滅のやつ)でも、もう2月くらいに、K-POPブームはテレビ局やメディアが作り出したものだって言ってたけど、そりゃ何でもブームは今までもそうでしょって冷静に思うんだけど、韓国なのが悪いのかな、まあ安いギャラで出演してくれて人気があればテレビ局的には願ったり叶ったりなだけじゃないかなとも思うが、そもそもこういう隣組的平均化運動がもたらしたものが今のアクのない一般人みたいな芸能人で、僕なんかはコンセプトを突き詰める人が好きで、一般人な平均化された人をわざわざ見たくない。その反動として江頭とかが神と呼ばれたり、まあ芸人だから普通なんだけどと思うけど、たとえば気取った人がいないのは寂しいな。

吉川晃司なんてイカしてた。
http://www.youtube.com/embed/uRy2U0SFz-k
いやー吉川かっこいいっす。あげポヨです。

ついでに、レベッカなんてのも、イカしてた。
http://www.youtube.com/embed/BS_DvwuAxhs
NOKKOすげーっす。パワーもらえるなー。

えー……つまり、こういうのを共感主義というのだが、残念ながら、ぼくに共感してくれる人はあまりいないから成立しないのである……この話はまた別に書くとして、今回のチャンネル桜が表立ってデモの動画に尖閣問題と同列で(まあ感情としては同列なのかもしれないが、成り立ちは大分違うのに)差し込んでいるのは、尖閣デモの焦点がぼやける気がするのだが、まあそれよりも、他にもっと大事な意図があるんだろうなと思う。今は好機ととらえたのだろう。かねてからの主義への世論の煽動という感じかな。ここからの状況としては、ただメディア間の落としあいに利用されて、もはやリアルもネットもないというのはネット大衆の幻想でしかなくて、どこかで誰かが作っているとして、現象としてメディアが取り上げるのは面白いかどうか、それにより読者や視聴者がどれほどいるかを考えるからにすぎない現実を知り、口をあんぐりあけて、たまにぼそっとメディア戦争に口を挟むだけになるかも。

それでも真に心にありもしない国粋主義とかどうでもいいことをネットからリアルに投影されるよりはいいんじゃないか。

僕は思想家の運動はあんまり好きじゃないから、この拡声器で叫んでる水野さんは司会者としては好きなんだけど、複雑な気持ちになっちゃったなあ。どっちにしろ韓国にしろ右翼にしろメディアがこんな風にコンセプトを明確にしているのだから、これからはチャンネルを自らが選べばいいだけだ。何もなければ自分で作ればいい。そもそも『何故?』だって今読みたい文芸誌がなかったから、じゃあ自分で作ろうという、そういう気持ちで出来たものだし、そういうものだと思う。

それはともかく。

で、今回、何故、このことを取り上げたかというと、核家族という言葉が出てきて、僕はそのまま父と母と三人で暮らす所謂核家族そのものだったわけだが、村上龍の『最後の家族』にもあったが、現在はもう核家族すら崩壊して、血族、家族、親戚などの意味合いがほぼ透明に薄れてきていて、核分裂家族になっちゃったなあと思ったからだ。(自分もだけど。)それで、これいい言葉じゃん、この言葉使って本書けるなあとちょっと浮き足立って、一応誰かが使っているかもしれんとネットで検索してみたら、案の定、もう普通に使われていた……。

がーん、残念です。

まあ、それでも、この言葉を使わないと、いいたいことが書けないので致し方なく使わせてもらおう。

現在を表すキーワードをポヨあげしよう。(いやそれぞれ現実は色々あるだろうけどネットの総体って意味で。そりゃ外山恒一の性の魔界を糾弾するためにネットで頑張っている人も知っているから。あくまで総体。)

デモ 右翼
在日 ナショナリズム サッカー
一人カラオケ 一人焼き肉
アニメ
SNS Twitter

たとえばgoogleなりで検索すると、在日とか統一教会とかが絡んだ結果がヒットするのは、ちょっと検索システムに問題があるなあと思う。全く外れているわけではないだろうけど、完全に真実でもなくなおかつ過激だから、全くの白紙の歴史観とか知識がない人が見たら、これが日本の裏かって信じそうで、いやそれはないかもしれないけど、たまに本当のことがあるけど、大体がクールな情報ではなく感情経由の感性でも知性でもなく、あくまで感情基準の情報とも呼べないものでしかなくて、日本のネットって何だか全体的にSNSもツイッターも大体が感情からの共感、そこからの社会形成としてのつながりになっている。それはそうで、特に地域も仕事も趣味も違うなら、感情くらいしか共通項はないのだろうが、昨今の反韓を考えると、その前に一つ付け足したような共通項として日本人ということがでてきた。これは多分能動的な思想とかではなく、共通項を探す過程での消去法で出てきたのだろう。ようはバラバラ核分裂状態で、あとは何にも共通項がなく、最後の接着剤としての、ニッポン人ということになるのかも。核家族が分裂して、一つの分子だったものが原子として放り出されて、現代人のほんとんどが孤独のなかで生きているとして(あくまで過程、孤独は気持ちの問題であるから人それぞれと付け加えておく)、原子と原子をつなげる役目としてニッポンを見つけたと言えるのではないか。だからナショナリズムがはじめある一定のものを排除する動きを見せるのはできあがった分子としての集団をつなげるものの弱さをカバーする為に動く消極的な運動だろう。

例えば、福沢諭吉が言文一致運動しても、方言っていうのは

これはしかし、厳密にいうと、さらに遡りそもそも論でいえば、ニッポン人なんてのは元々どこにもいない海流終着駅としての寄せ集めの冒険家か避難民の島なんてことになる。天皇制のそもそもの位置付けがバラバラニッポンの統合としての神格化だったとして、近代もだけど(そもそもの1300年前ね、古事記とか日本書紀という物語の力で天皇周辺の支配層がやり遂げた偉業のことね。)いつの時代もそれが大衆からのつながるモノへの渇望と、それを利用した支配層の企みとの一致がなければ成し遂げられないはずだ。
話がとんだが、このままこの共感社会を推し進めていく時、ほとんどない共通項としてのニッポン人を推し進めていく時、厳密にいうと違う人ばかりがでてきたとしたら、あさま山荘までのリンチとかで象徴される学生運動末期の頃のように、これも違うあれも違う結局みんな違う!なんてことになったりして、粛清繰り返した挙句に、自己矛盾からの自己破壊で、またバラバラになっちゃったっ……てことにもなるかも。今でも言論の自由とかいう奴が何か戦時中の隣組みたいに人の言動を監視して、それはおかしいと隣組的ネット集団で攻撃したりするという、おかしなことが起こっている。炎上なんかで自由な発言ができないなんてのもまさにネット隣組の目を気にしてだろうし。

しかしチャンネル桜の社長の水野さんは、番組見てたらもともと思想があっての言動だが、ネット発信の何とかデモとかは、どれだけの人が知識として知り、なおかつ真摯に考えてきたか甚だ疑わしいから、ただの共感主義(主義と言えるかも甚だ疑問だが)からのポイポイピー的な行動なのではないか。例えるなら、チャンネル桜で、いみじくもパチンコ撲滅キャンペーン的な放送を繰り返しているが、ほとんどのパチンカーが、
「だって休みの日に何もしないでいるよりパチンコだって何もしないよりはマシだろ、生きてること感じるし」
みたいなノリで、ひとまず何かしたいしという捌け口に、こういう危ういナショナリズムになりかねない運動に没入するという。それは学生運動で何かしたい的な、マルクスなんてどうでもいいが、ひとまず仲間がいるし一人じゃないし、いいじゃん運動!ということになると、それを自らのアイデンティティにさえしてしまった後では、もしかしたら悲しい結末が待っているんじゃないか。

どっちにしろ、こんなグローバルな時代で、海外のどこでも住める時代に、ただ生まれたからと言って住み続けなきゃいけない義務もなし、そんな国にたいする想いなんてのは歴史や文化や自然以外には何かあるのか、甚だ疑問だ。ちょっと前まで、いやつい10年やそこら前まで、僕らの学生時代は、これからは海外の時代だから、日本もくそもない、という、からのポイポイ的なアメリカかぶれ全盛時代で白人世界への羨望なんてのもあって、当時から日本も別にそれほど好きではないし日本人的思考の偏狭な部分が大嫌いでありながらアメリカかぶれも嫌いだった僕は、今でもずっと、どっちにもつかず見てて、またはじまったかと思うだけだ。僕は、最近つとに、いつか海外を気ままに移り住みながら旅したいなあと考えてる。で、うちの娘には、日本にこだわらずに、できれば海外へ行けと教えてる。娘は、
「イヤだ怖い、何で行かなきゃいけないのよ」
と憤怒をこらえて言うが、できれば大きな視野をもち生きていって欲しいから、ライオンが子ライオンを谷底に落とすように、ニッポンから追い出せたらいいなと思ってる。ニューヨークの警備員付きのアパートメントで暮らすスニーカーとスターバックスが似合う粋な女性になって欲しい、あるいはフランスはパリのオープンカフェで「今年も日本に帰れないから、ポストカードをパパに送ろう」とコーヒーを飲みながら考えるような女性でいて欲しいし、あるいはインドの街中で……いやはや妄想はこれくらいでポイして、日本にいて、グチグチつぶやくような人生より、もっと素晴らしい人生を歩んで欲しいなあと思ってるという、それだけだ。もちろん日本にいて何か生き生きとしたことをしてくれていたら、それだけでいいが。まあ自分の人生ではなく、娘といっても人の人生だからこればかりはどうにもできないが。

脱線ばかりだが、話を戻そう。
つまり核分裂家族からの融合は、世界人への始まりにこそなって欲しいなあと思ってる。
その方が良いエネルギーになるだろう。
ということで、これからのポイポイピーに期待して、最後に、大江健三郎の言葉を引用して、締めくくりたいと思う。

この国では、決して大きい仕事をなしとげたとはいえない歴史学者や文学研究家、国家の芸術機関の権力者でもある作家などが、その晩年に、国を憂える言論を始めてベストセラーにすらなることがある。それはケナンやトムソンやトーマスが、世界を憂えることで地道な本を書くのと逆だ。そういう新出来の愛国者を待ち迎える傾向は、この国のナショナリズム肥大化の勢いのなかでさらに栄えることだろう。それは、すでに国内のみならず海外から見ても、新しく奇怪な日本人像を提供する役割もはたしている。
それらを見て気がつくのは、老齢に達して遺言のようにであれ、国を憂える文章を書かずにいられないという動機づけが、ことごとくウソだ、ということなのだ。かれらは自分の本来の仕事において、書くことがなくなったにすぎない。それはつまり、彼らの生涯の仕事が、本質的な積み重ねとそこからの自然な結実に無縁なものだったことをあかしだてる。あなた方が国を憂えるのもいいが、それよりももっとやらねばならぬことがあるのではないか?あなた自身をーその魂を、とまではいわないけれどー憂えることもしなくてはならないのではないか、あなたのいうとおりもう持ち時間は少ないのだから!

これは、なんちゅーことない、核分裂家族のことを考えていて、ネットとリアルを往復していて、ふと思った、全くの適当な思いつきの文章だから、気にしなくてもいいし、気にしてもいい。

また気づいたら、ネットの動向とリアルへの影響について書こうと思う。