織田信長を知らぬ人はいまい。だが織田信長の墓所となると、即答出来る人はよほどの歴史好きだろう。しかも歴史上の人物の常でもあるが、ことに有名人の墓所というのはやたらめったら多い。何かにかこつけてどんどん増えていったりする。織田信長の墓所とされるものも10や20あるとされる。比較的に有名なのは、京都では現在の本能寺の境内にあるものと、豊臣秀吉が一周忌を執り行った大徳寺内にあるもの。そして滋賀県の安土城二ノ丸跡にあるものなどは、観光や史跡見学の折りに目にする機会が多いので、知られているかもしれない。
だが、織田信長の本当のお墓であり、これぞ決定版とされるものが京都市内にある。なのに特に観光名所とされることもなく、話題にも上らず、実際あまり訪れる人もいないようだ。一応は史跡とはいえ、しょせんは単なるお墓であるから、ネームバリューのある場所にあるとか、大寺院であるとか、城跡のようなものとセットになっていないと話題性も乏しいのだろう。かの織田信長が葬られているにしては、この寺はささやかなものだ。そして市街地中心部からは少々離れた場所にある。
場所は寺町通りをずっと上がり、出町柳の賀茂川と高野川の合流地点(鴨川デルタ)を過ぎてもっと上がる。京都風の住所表記でいうと「寺町通今出川上ル」から、さらに下鴨神社と同じくらいのところまで歩いたあたり。そこに『阿弥陀寺』という名前の、京都の町並みの中ではさして大きくもないお寺がある。そここそが織田信長の本当のお墓とされる場所だ。こんなところに?と思うような目立たない場所であるが「織田信長公本廟」という石碑が建てられているので間違いはない。
境内に入ってみるとあまりにも素っ気ないのに戸惑う。目立った装飾はなにもないし、その手前にある十念寺の方がよほど立派なのでそちらの間違いではないかと思いたくなるほどだ。墓所はお寺の裏手の敷地になっている。渡り廊下をくぐって裏手に回ると、さして広くない敷地がある。そこには数々の一般のお墓に混じって、織田信長をはじめとする本能寺戦死者の墓が並んでいた。
本当にささやかな墓である。本能寺で討死した織田信長と、二条城で討死した嫡男信忠の墓が仲良く並べられて弔われられている。長年の雨風にさらされてきた歴史の重みだけは感じられるが立派なものとはいえない。傍らには共に亡くなった森乱丸(蘭丸)、力丸、坊丸の三兄弟のお墓や他の家臣衆の墓がいくつか並ぶ。信長関係の墓所としてはそれだけだ。なぜこれが本当の織田信長の墓と言われているのか。素っ気ないのにもしっかりとした理由があった。それはこういうことだ。
本能寺の変が勃発したおり、阿弥陀寺の時の住職である清玉上人は、信長と懇意にしていたこともあり、僧徒を引き連れて本能寺に駆けつけた。しかし明智勢の囲みをかいくぐるのは難しく、なんとか裏門から侵入した時には、既に信長は自害した後であり、清玉上人は遺体を明智勢に見つからぬようにそっと運びだして寺内に埋葬した。後に豊臣秀吉の天下になり、秀吉は自らを喪主として信長の一周忌を執り行うにあたって、阿弥陀寺に協力を要請する。しかし信長の法要を、権力争いの道具とされることを望まなかった清玉上人はこれを拒否したのだ。秀吉は大徳寺に総見院をあらたに建てることになる。秀吉の怒りをかった阿弥陀寺は所領を大きく削られ今に至る。
なかなか面白い本能寺の変の裏話だ。つまり成立段階からして、織田信長の墓という巨大なアイコンの、メインストリームから外れる理由も必然もあったのだ。寺がひっそりとしているのも、お墓が必要最小限なのも、ほとんど宣伝されてこなかったのも、すべてに綺麗な説明がつく。もちろん信ぴょう性というのは今さら誰にも証明が難しいものではあるが、よく考えられたミステリー小説の種明かしのようだ。このストーリーに歴史的なロマンを少しでも感じたなら、信長のお墓参りとして訪れるには十分な場所だと言える。観光コースには組み入れられることは無いけれど、それがかえって面白みがあるのではないか。信長の本当のお墓をお参りしてきたとなればちょっとした話のネタにもなる。
余談だが、すぐそばにある十念寺には、室町幕府6代将軍の足利義教の墓所がある。強硬で革新的な性格や、比叡山との敵対、家臣に裏切られての非業な最期など、後の織田信長とよく対比される人物だ。その二人が御近所様としてお墓を並べているのがなんとも面白い。縁もなにも無くてたまたまのことだろうが、これが歴史の妙というやつだ。