福岡県に明智光秀の子孫がいた?

  by 大林憲司  Tags :  

江戸時代の地誌にも記されている福岡県の明智光秀の子孫

 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀を主人公にしたドラマです。その明智光秀の子孫が福岡県にいるのではないかという話はご存知でしょうか?
 『筑前國続風土記附録』遠賀郡 利 引野村の教念寺の項には次のように書かれています。
「廣照山と號す。小倉永照寺に属す。開基の僧を芳俊といふ。此僧ハ明智光秀か異母弟なりとそ。正徳四年四月寺號木佛を免されしといふ」。
 ちなみに『筑前國続風土記附録』は福岡藩士・加藤一純が編集した福岡藩の地理誌ですが、寛政五年(1793年)に加藤一純が亡くなり、鷹取周成や助録の青柳種信の努力により寛政十年(1798年)に完成したものです。なお、『筑前國続風土記附録』遠賀郡の部分は寛政五年(1793年)の段階ですでに成立していたようです。
 また『筑前國続風土記附録』に続く地理誌『筑前國続風土記拾遺』(編者・青柳種信 天保八年(1837年)頃に完成?)の教念寺の項にも次のようにあります。
「本村道永に在。真宗西鞍手郡感田村浄福寺の末なり。 開基の僧芳俊は明智光秀が異母弟也と云。 正徳四年四月木佛を許さる」。
 これを見る限り、江戸時代後期の寛政五年(1793年)には「明智光秀の異母弟が引野村の教念寺を開いた」という言い伝えがあったことがわかります。私はこれを見て興味を持ち、教念寺のご住職である古賀哲乗さんにお話を聞くことができたので、その報告を記したいと思います。

 教念寺は北九州市八幡西区引野三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。現在は住宅街の中にありますが、昔は田畑の中にあったようで、古賀哲乗さんの話によると最初に建立されてから場所は変わっていないとのことでした。

引野の教念寺

 お話を聞かせていただいた古賀哲乗さんは教念寺の第17代目住職で、『附録』『拾遺』に書かれている言い伝えが正しいとするとこの方が明智光秀の弟のご子孫ということになります。

教念寺の本堂と古賀哲乗さん

 古賀哲乗さんにお聞きした話をまとめると次のようになります。
「教念寺の初代住職は芳俊ではなくて『大俊』(芳俊は教念寺の三代目住職)。大俊は俗名を久我源右衛門といい、京都の久我に住んでいた。こちら(九州)に来てから古賀と名乗り今に至るまで古賀を名乗っている。久我源右衛門は元は毛利輝元の家臣。筥崎宮にいた頃、鷹見神社の坊に由来する向坊氏の招きで遠賀郡引野に来てこの土地を開墾した。その後、出家して釈大俊と名乗り教念寺を開いた」とのことでした。また古賀哲乗さんから「詳しいことは『遠賀郡誌』と『福岡県地理全誌』に載っている」とのご教示をいただいたので、図書館で調べてみると確かに引野村に関係する記事がありました。
『福岡県地理全誌』巻之四十八 遠賀郡之十 引野村 教念寺の項
「本村ニアリ。廣照山ト號ス。真宗西派小本山鞍手郡感田村浄福寺末ナリ。文禄元年壬申、大俊ト云僧(俗名久我源右衛門)開基ス。一説ニ開基ノ僧ヲ芳俊ト云フ、明智光秀カ異母弟ナリト云フ。正徳四年甲午四月寺號木佛ヲ許サル」
『遠賀郡誌』上津役村大字引野の項
「此地もとは原野なりしを、周防山口ノ城主毛利家の浪士、古賀源右衛門といへる者、此地に来りて開墾して村を立てたり云。一戸一説には京都久我の里人、久我源右衛門とあり、其子孫今猶当区に繁殖せり」
 『福岡県地理全誌』遠賀郡の項目は、家老野村家に仕えていた林次敏が明治六年に遠賀郡の調査をして執筆したものだとされています。林次敏は明治四十三年に『遠賀郡誌』の編纂委員長になっていますので、『福岡県地理全誌』と『遠賀郡誌』の教念寺の項はどちらも林次敏が現地で聞いた話を基に書かれたものだと思われます。それらの記事を総合すると「文禄元年(1592年)に毛利家の浪士久我源右衛門が、引野の土地に来て開墾し、後に大俊と名乗って教念寺を開基した」ことになります。古賀哲乗さんの話では教念寺には「慶長十二年」(1607年)の年号が見られる過去帳が存在するそうなので、江戸時代初期にはすでにこの土地に教念寺があったことは確かなようです。
 ただ、教念寺には初代住職の大俊と明智光秀との関係について伺わせるものは何もないそうで、古賀哲乗さんも「明智光秀との関係は言い伝えだけなので確かなことはわかりません」とのことでした。確かに言えることは江戸時代後期に「教念寺の住職は明智光秀の弟の子孫」という伝承があったことです。

鷹見神社六坊のこと

 「鷹見神社の坊に由来する向坊氏」と書きましたが、古賀哲乗さんからは「近くに善明さんという姓の人がおられますが、これも鷹見神社の『善明坊』に由来するそうです」との話を聞きました。そこでかつて存在したという鷹見神社の坊について調べてみたので、これについても記しておきます。
 鷹見神社は北九州市八幡西区市瀬に鎮座する神社で、同名の神社が八幡西区にいくつかありご祭神は熊野三神です。市瀬の鷹見神社は権現山の麓にあり、権現山(昔は杉山、あるいは坊住山とも呼ばれていました)への信仰から始まった神社だと思われます。古い時代には英彦山の修験道とつながりがあったようで、権現山も英彦山修験道の修行コースに組み込まれていたようです。

八幡西区市瀬の鷹見神社

 修験道の神社なので昔は寺院と一体化しており、そのお寺の名前を見光山神昌寺と言いました。『遠賀郡誌』上津役村神社仏閣の項目によると坊住山(権現山)の九合目に鷹見神社上宮があり、その下に見光山神昌寺(鷹見山神昌寺とも)と称する六坊が存在したとのことです。

鷹見神社の御由緒説明石碑

 『遠賀郡誌』には鷹見神社の縁起が引用されており、そこには「座主峰の坊」「別当向坊」「南の坊」「東の坊」の名前が見えます。峰の坊が見光山神昌寺の中心で、おそらく峰の坊の向かい側にあったので「向坊」、峰の坊の南と東にあったので「南の坊」「東の坊」と名前が付けられたのではないかと思います。これに古賀哲乗さんから教えていただいた「善明坊」を加えて五つの坊名が判明しましたが、あと一つの坊名だけはわかりませんでした。
 ただ、「善明坊」は峰の坊からの位置に由来する名前ではないので、峰の坊か向坊の付属の坊ではなかったかと推測できます。おそらくもう一つの坊も峰の坊か向坊の付属の坊ではなかったのでしょうか。
 鷹見神社と見光山神昌寺は中世に入る頃には荒廃していたようですが、縁起によるとこの地を治めていた麻生兵部太夫重兼と父親の麻生兵部近江守が復興。毎年九月には鷹見神社のご神霊が穴生村の御旅所に渡御するお祭りが大々的に行われていたようです。しかし、永禄四年(1561年)に大友氏との戦い(この年は大友氏と毛利氏が門司城を巡って北部九州地域で激しい戦いを繰り広げていました)で兵火にかかって焼亡してしまいました。おそらく生き残った鷹見神社と見光山神昌寺六坊の関係者は穴生村の御旅所に拠点を移したと思われます(穴生にも鷹見神社があります)。そして市瀬の鷹見神社は江戸時代に入った元禄時代まで再建されることはありませんでした。おそらく戦火の影響で市瀬及び市瀬と隣り合った引野の地域は一時的に人影が消えたのではないでしょうか。

引野の開拓者だった大俊

 『遠賀郡誌』の上津役村の大字引野の項目には「慶長の頃までは穴生村に属せしが其後別村となれり」とあります。つまり慶長(1596年~1615年)の頃には引野の土地にも人家が増え、引野村が成立できるようになったということです。そしてその中心にいたのは間違いなく、久我源右衛門こと教念寺の大俊でした。
 正直、久我源右衛門が明智光秀の弟なのかは、証拠がなくよくわかりませんし、疑念の点もあります。『筑前國風土記附録』には「開基の僧を芳俊といふ。此僧ハ明智光秀か異母弟なりとそ」とありますが、教念寺の開基は大俊であり芳俊は三代目の住職です。寺院では伝系を大切にするので開基の僧侶の名前を間違えるとは思えず、『筑前國風土記附録』の編者は教念寺の住職から直接話を聞いていない可能性があります。と、なるとこの話もどこまで信じていいのかは不明としか言いようがありません。
 それでも毛利家にいたとされる武士が、鷹見神社の六坊の一つだった向坊の人間に誘われて引野の土地にやってきて、その土地を開墾し、その後、僧侶となって教念寺を建立して住職となったのは確かでしょう。つまり彼は引野の大地(その頃は原野だった)にやってきてここに村を一つ作ったのです。明智光秀との関係はさておき、久我源右衛門は引野の開祖と言っていい人物なのです。

おまけ 「引野」の地名の由来

 『角川日本地名大辞典40福岡県』によると引野の地名の由来は「斉明天皇行幸の道筋に布を引いたことによるという」と書かれています。私がだいぶ前に新聞で読んだ記憶では、この地域の郷土史家である能美安男氏が採取した話だったと書かれていたように思います。ただ、今回いろいろと教念寺について調べているうちに、この説は『福岡県地理全誌』遠賀郡の項目を書いた林次敏が言い出した説であることに気づきました。
 『福岡県地理全誌』遠賀郡引野村の「安才野」の項目に「里人の説では欽明天皇が来られた時に布を引いたためにこの村を引布ノ庄と言う。この野は天皇の輿が休まれた場所である」(難字があったたため意訳しました)と書かれていて、その次に「欽明天皇が九州に来られたことは古書には見られない。斉明天皇は九州に来られていることは日本書紀に明らかであるから、斉明天皇のことを欽明天皇と間違ったのだろう」(こちらも意訳)という林次敏の考えが付け加えられています。元々は欽明天皇を布を引いて出迎えたという伝説があり、林次敏が「欽明天皇ではなく斉明天皇のことだ」と解釈したことが定説になったようです。
 ただ、林次敏が記したように欽明天皇は九州には来ていません。ならばなぜ「引野」という地名になったかですが、私の考えでは引野は北の別所坂(福岡県立八幡工業高校のあるあたり)と南の上ノ原(マックスバリューのあるあたり)の間にある低い土地なので「ひくの」、つまり「低野」であり、その地名をめでたいものにするために「この地にやってきた貴人を出迎えるために布を引いた野原」という伝説が作られて「引野」になったのではないかと思われます。ただ、北部九州に来たとされるヤマトタケルでも神武天皇でもなく、なぜ欽明天皇が選ばれたのかは不明です。

 引野は北九州市の中でも八幡西区の人間にしか馴染みのない地名ですが(高速バスの停留所があるのでJR黒崎駅JR折尾駅と並ぶ八幡西区の交通の拠点)、ソフトバンクグループを率いる孫正義代表取締役が子供の頃引野にいたとか、女優の板谷由夏さんが引野中学で剣道やっていたとか、全国的に有名な人物が住んでいた土地でもあります。そしてその引野の土地を開拓したのが久我源右衛門こと教念寺の開基大俊なのです。意外な所に歴史のロマンが隠れていたというところでしょうか。

福岡県の面白い情報を伝えようと思っています。 次のサイトにも歴史的なことについて論じています。 大林軒の天地の余事 https://dairinken.hatenablog.com/ こちらもご覧ください。 連絡先は ohbayasinzan☆yahoo.co.jp (☆を@に変換してください)

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