断固「柔道」支持

  by あらい  Tags :  

戦前から日本の柔道はこのロンドン五輪での活躍が不安視されていたのですが、不安は現実のものとなり、男子ではついに日本は金メダルを一つも取ることなく、柔道の全日程が終了してしまいました。日本は「柔道」と「JUDO」の違いに対応しきれず国際化に遅れている、のような論調でこの非常事態を語るのなら、筆者はそれに真っ向から反対したいと思うのです。

格闘技は、それがどんな格闘技であっても「どこで負けを認めるか」、というところにその美学が集約されるはずです。負けを認めないのなら、どちらかを殺すまでやるしかないのが格闘技なのです。その「どこで負けを認める」美学に共感できるものがあればある程、その格闘技の人気は高まっていく訳です。「保守本流」のプロレスであれ、「邪道」のプロレスであれ、K1であれ、人気のあった格闘技は全てそうなのです。

柔道の場合、「相手に自分の重心を奪われた(技が決まる、という本質)ら、部分的にであっても、負けを認めましょう」という美学で成り立ってきた格闘技なのではないでしょうか。

ところが“JUDO”では相手に重心を奪われてても「奪われていない」としらを切ることに、あまりにも寛容なのです。パワーがあれば、重心を奪われていてもしらばっくれることができますし、相手の重心を奪っていなくても相手を倒すことができます。重心が奪われたのか奪われなかったのかは、最終的にはやっている選手どうしの自己申告の部分がある(やってる本人が一番良く分かってるのです)訳ですが、“JUDO”では全てを審判の目からどう見えたか、に全てを託してしまった訳です。その結果、「背中を付いたら負け」のようなおかしな基準が出来上がってしまい、結果としてどんなに重心を奪われていても(技が掛かっていても)背中さえ付かなければセーフ、という競技になってしまった訳です。逆に相手の重心を奪えたかどうかは別にして、流れで何となく、であっても勢い良く背中が付いてしまえば負け、にもなってしまった訳です。「それを柔道と呼ぶ事はできない」という日本の主張は、筆者は正しいと思います。

技でも何でもないものにポイントが入り、技をかけられても「しらばっくれ」てるのは、柔道なんかじゃないと筆者も強く思います。そういうものが目につく今回の五輪の“JUDO”は、そもそもが見てて本当に面白い競技だったのか?、とも思うのです。今回の五輪の試合の感想を、是非外国人の人達にも聞いてみたい所ですが。

それはそれとして、文化の違いがあるのは分かります。日本は国際社会で交渉下手、とされるのは、おそらく外国人が負けを認める10歩も20歩も手前で負けを認めてしまうような習慣が身に染みている部分もあると感じている人は、国内にも多いかもしれません。外国人は、本当にギリギリまで負けを認めません。例えば、今のユーロ危機等を見ていても、ヨーロッパの人達はもうとっくに結論は出ている(ある部分、もう共同債しかない)ことであっても、ごねてごねてまだ結論を出さない、それでも通ってしまう、という価値観で歴史を重ねて来ている訳です。国際社会で交渉をする、というのは、そういう人達と付き合う、ということだったりします。日本人の普通の感覚でこの人達と普通に交渉しましょう、というのは中々難しい話になるのは仕方のない部分はあると思うのです。もちろん、国際社会と付き合うなら、これは日本人の側で工夫していかなければならないことではあると思うのですが。

そんな外国文化にとって「重心をちょっと奪われただけで負けを認めましょう」は、それこそ20歩手前で負けを認めましょうという位の感覚なのかもしれません。そのセンスが外国人にとって受け入れ難いものであることが、筆者も全く分からないのではないのですけど、それでも柔道は日本人の良さを表現した文化なのです。その文化を好きになってくれるのなら、その本質をもっと理解して欲しいと思うのです。「我々日本人はアンタ達の思う10歩も20歩も手前で負けを認めるセンスがあるから日本人なのだ」「それが日本人の相手を尊ぶ“心”なのだ」「その精神があればこそ、柔道とういう文化が生まれ、育まれてきたのだ」、と日本人はもっともっと主張し続けて良いと思うのです。そこは「国際化が遅れてる」だの「ガラパゴス」だのという話なんかに付き合う必要は全くないと、筆者は思うのです。日本人のアイデンティティー、と言っても言い過ぎではない要素が、ここには潜んでいるからです。むしろ、このアイデンティティーをブレずに主張し続ける強靭な道徳意識を持つ事が、日本の真の国際化にも繋がっていくのではないでしょうか。

「日本人は自分達の文化を説明するのが下手だ」と言われることが、国際社会ではしばしばあるようです。柔道も、そんな日本人らしさがアダになって、日本の柔道は、確かに今苦しい時期を迎えているのだと思います。それでも筆者は日本は「柔道」を諦めて欲しくはないのです。既に「JUDO」の本質に居座ってしまった“しらばっくれ”の精神には、日本人として、全く共感ができないのです。「柔道の本当の美学を一本を取る柔道で証明してやる」これまでの日本柔道界の姿勢を、筆者はあくまでも支持したいのでした。

 

※掲載した写真は柔道の創始者といわれる嘉納 治五郎氏の28歳頃の肖像(講道館所蔵)

 

 

東京の音楽業界の隅っこで仕事をしてきました(インディーズアーティストのもろもろ、ゲーム、ラジオの音楽制作、専門学校講師等)。2014年から某楽器メーカー勤務。

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