大津市のいじめ・自殺の裏にある、“タブー”。
メディアで大々的に報じられているのは見かけないが、ネットでまことしやかに囁かれている。
ここで“タブー”の詳細に触れることは控える。
ざっくり言うと、大津市のいじめ自殺事件の隠ぺい・気味が悪いほど歯切れが悪く的外れな学校や教育委員会(教委)の対応の裏には、社会におけるマイノリティの存在、貶められてきた歴史を持つ人々の存在(団体)があった、という内容。
この“タブー”について知ると、教委の受け答えにあった「加害者側の人権が…」という言葉に、また違ったニュアンスが見え隠れすると思う。
少数派であったり、個人の責任がない理由により、不当な扱いを受けた歴史を持つ人が世の中には存在する。
また、その血筋を受け継ぐ人ももちろんいる。
このような人々を、この記事ではマイノリティと位置付ける。
マイノリティと言われる人々は、虐げられていた事実が“歴史”と位置付けられるようになった段階では、反対に“守られる”側に転じていることがある。
税金の減免や国からの補助金などはその例で、一般市民からすれば「特別待遇」であるといえる。
社会を覆う偏見や無理解によって彼らが苦しんできたのだと思うと、そうした特別待遇に異論を唱えることはここではしない。
だが、マイノリティとされる人々はしばしば組織化し、虐げられていた事実を逆手に取るかのように権利を振りかざすことがある。
時には行政や教育が退けることもできないほどの力を持って、その権利は行使される。
行政や教育を担う一員となることもある。
裏で癒着しているなんていうことは往々にしてあり得るだろう。
先ほど述べた税金の減免や補助金についても、廃止すればいいと思っている人はおそらく一定数いると思う。
しかし、そのような機運が高まれば、組織化されたマイノリティの抵抗に遭う。
彼らにとって不都合なことが起きて、それが日本の全国民の知るところになったなら、なりふり構わず隠ぺいする。
その不都合な事実によって、人の命が失われてしまっていたとしても。
行政や教育機関も、彼らから独立して存在できていない、運命共同体のような部分がある。
お互い、知られてまずいことが同じだったのだろう。
ここまで来れば権利云々じゃない。暴力であり、支配だ。
こんなことは場所を変えて大なり小なりいくつも起きている。
力が弱かったり、少数派と言われる人々の振る舞いに、ささやかに疑問を抱く場面。
思い当たる人は多いのではないだろうか。
私は弱いから、虐げられてきたから、尊重されて“当然”という態度。
その態度は、社会から守られるべき相対的弱者を、ただの傲慢な人間にしてしまう。
人の優しさを引き出すどころかひっこめさせてしまう。
本当にそのことで困っている人までも誤解され、優しさがうまく分配されないことになる。
こうしたことがあり続ける限り、マイノリティ批判はなくならないだろう。
自分に責任のないことで不当に苦しい思いをしている人々は今もたくさんいる。
そんな状況から、いつかは解放されるかもしれない。
それは正しい動きであるが、当然のことではない。
解放するために声を上げた人々がいたから。
それを聴いて行動した人がいたから。
苦しみから解放されたら、そうした『理解者』たちと対等に肩を並べるだけでない、手を取り合っていってほしい。
大津市の事件の“タブー”、真偽のほどは私には定かでないけれど、そんなことを考えた。