京都の海を目指して… 潮風に歴史色付く『舞鶴』の旅路

雲も旅する日本海

JR東舞鶴駅に降り立った時、雲行きはかなり怪しかった。

2017年7月のある日、僕は日本海沿いを北から南へと旅していた。富山から石川、福井を抜け若狭湾を眺めていると、京都府に入ったあたりからだろうか。さっきまで梅雨も明けそうな青空が広がっていた車窓に、曇が流れてきた。

…ま、すぐにまた晴れるだろう。なんて呑気に構え、辿り着いた東舞鶴駅から北へと歩き始めれば、僕は海を目指した。

歩き始めた、その街は…

京都府舞鶴市。近年は『海の京都』とも称されてる京都府の丹後地域でも重要な港街だ。

そう、京都にも海がある。そしてそこには平安京とはまた違った歴史の轍が刻まれているらしい… なんて事を数年前に知った僕は、海好きも相まってこの街をいつか訪れたいと思っていた。そして富山の諸用のついでに、ついにやってきたという訳なのだが…

雲はますます厚くなり、生ぬるい風に雨の匂いも漂ってきた。これはまずいかもしれない。

その一粒が、出会いの始まり?

…ぽつんと一粒、水が手に止まる。

ついに雨が降ってきた。リュックに忍ばせておいた折り畳み傘を取り出し、また歩き出そうとした次の瞬間。雨は本降りどころか、いきなりの大雨になった。轟音が路を叩き付ければ、近くで雷も響いている。

街行く人は大急ぎでどこかへ駆けて行く。僕も雨宿りできる場所を探しつつ、一応海あるの方角へ向かった。

妖しくも幻想的な、雨宿り?

やや左へと弧を描く道を行けば、目の前に山とトンネルが現れた。わずが数分しか歩いていないのに、靴もジーンズもずぶ濡れ。これは助かったと思い、トンネルへと駆け込む。

妖しくも幻想的なそのトンネルは薄暗く、灯りはほのかにレンガの壁を紅く染めるだけであった。

なんて言うトンネルなんだろう… そう思った時、ふととある名前を思い出した。

『北吸トンネル』…

旅立つ前、舞鶴の事を少し調べていた際に、そんな名前のトンネルが有形文化財に登録されているという情報に触れていた。それはレンガ造りのトンネルで… そう!かつて鉄道が通っていたとか!そういえば大雨に打たれていてあまり気にしていなかったが、ここに来るまでの道には意味ありげな二本線が描かれていた。あれはもしかしたら線路を表していたのではないだろうか。そう思いスマホでマップを確認すると…

現在地を示す青い点は、北吸トンネルの中にあった。

歴史も通り行く『北吸トンネル』

雨はもう少し降り続きそうだった。

トンネルの向こうの端に、自転車を持った人がひとり。そしてトンネルの真ん中あたりにもひとり、雨宿りをしているのであろう人影がある。

全長およそ110メートルの北吸トンネルは、今でこそ地元の人々や観光客が行き交うが、かつては舞鶴港へと向かう軍用路線、国鉄中舞鶴線のトンネルであった。

1901年(明治35年)、日露戦争の重要拠点として舞鶴沿岸部に舞鶴鎮守府が置かれると、新舞鶴駅(現・東舞鶴駅)と鎮守府を結ぶ軍用路線として中舞鶴線の建設が始まる。その線路は途中で山を貫く事となり、1904年(明治37年)につくられたのが、この北吸トンネルだった。時代が戦後に移ろいでも中舞鶴線は特殊貨物の輸送路線として活用され、北吸トンネルも物流の一翼を担っていたが、国道27号線の整備などにより輸送量が減少。1972年(昭和47年)に同線はその役目を終え、北吸トンネルを含む線路跡の一部はその後サイクリングロード・遊歩道として再整備された。

その饒舌な一筋に…

雨は止まない。もう少しトンネルの奥へと進む事にする。微かに揺れる落ち葉に気付けば、蛙も雨宿りの旅路を共にしていた。辺りは一層暗くなる。振り返ると、トンネルの向こうの雨粒は、風に墨跡を残して道に埋まって行くように見えた。

折角なので、トンネル内を観察してみる。すると節々に、退避壕の跡が見られた。この街が如何に旧日本軍にとって要だったかが伺える。さらに壁伝いに水が垂れている箇所がある事に気付いた。

その一雫を眺めていると、かつて聞いたトンネルにまつわる話を思い出した。

ときにトンネルの壁を水が伝う状況は他のトンネルでも見受けられるが、これは基本的に意図せぬ漏水ではないという。あえてトンネル上からの出水を阻止せず、地中の水分をトンネル内からさらに外へと逃しているのだそうな。そうしなければ、地中の水分の重みでトンネルは崩れてしまうとか。

その自然で沈深な姿に、戦争を越えて今も息づいている所以を感じたり。この一筋が舞鶴港へと駆け行く中舞鶴線とも擦れ違ったのだろうかと在りし日に想いを馳せれば、静かな水音に耳を澄ませてみたり。

そうこうしているうちに、ついにトンネルの向こうから陽が射してきた。

夏色の光の中へ…

雨宿りを始めてから30分くらい経っただろうか。雨音が終止符を打ち、トンネルから海へと続く道が、逃げ水を追いかけるように輝き出した。

夏色の陽射しに、自然と靴音も高鳴る。

トンネルの外では、深緑に蝉の声が響いていた。振り向けば、雨宿りに駆け込んだ時とはまるで違う、揚々とした北吸トンネルの姿があった。風さえ着替えたかのように穏やかなその佇まいは、このトンネルが歩んできた歴史の旅路と、どこか繋がっているように思えたり。乾いた傘と玄奥なひとときの記憶をリュックに詰め込んで、僕はまた歩き出す。

線路の記憶が続く先…

北吸トンネルから続く道をさらに進めば、なおも二本線が足音に寄り添っている。

この二つの線同士の距離、1067mmくらいを意識しているのではないだろうか。それはすなわち、当時の中舞鶴線始め日本の多くの鉄道路線のレールの幅。今もなお幾多の街と街を紡ぐ慣れ親しんだ軌間の面影に気付けば、全ての旅路が結びついてような感覚さえ覚えるのは鉄分豊富な道楽旅人ゆえだろうか。(笑)

何はともあれ、線路跡に沿って僕は歩いた。すると道の向こうに、北吸トンネルとは違う姿の紅が見えてきた。

風も彩る交差点

舞鶴の歴史を紐解けば、人々がこの地に住み始めたのは遥か1万年ほど前だという。由良川の恵みを受け稲作が盛んだったこの土地は、歴史の風に揺られ次第に丹後地域の中心地として栄えて行った。繁栄の大きな要素として、その港に適した舞鶴湾がある。江戸時代に舞鶴の街が港としての役割を持つようになると、丹後はもとより京阪神地区全体にとっても交通の要衝として発展した。

明治維新までは舞鶴城下の商港や漁港として賑わいを見せたこの港であったが、舞鶴の東の港である舞鶴東港が1889年(明治22年)に帝国議会により軍港に指定されると、政府により大規模な開発が行われ軍事的配色が強くなった。

そんな歴史の中で、明治から大正に至るまで旧日本海軍によってこの街に数多くつくられたものがある。それは、倉庫をはじめとした赤レンガ造りの建築物だ。

…この道の先に見えるあの赤もまた、この街の歴史を物語っているようだ。追い風がTシャツの裾を引っ張っている。

歴史の深淵な筆づかい…『舞鶴赤レンガ倉庫群』

そうして辿り着いたのは、『舞鶴赤レンガ倉庫群』。

このエリアには1901年(明治34年)から1921年(大正9年)にかけて建造された赤レンガ倉庫が12棟保存されている。これらはかつて全て旧日本海軍の軍需品や書類保管に利用されていた。現在は博物館やイベントホールとして利用されており、うち8つは『舞鶴旧鎮守府倉庫施設』として重要文化財に指定されている。

その燻銀にも似た紅を、黒雨と青空の間に紡いだ風は、ときに不器用で深淵な歴史の筆づかいのようにも感じたり…

波音さえ青く…『舞鶴港』

さぁ、赤レンガ倉庫群の目の前は、ついに目指していた舞鶴の海だ。博物館を見学した後、観光案内の方に海が綺麗に見える場所を訊けば、倉庫群の北側の小高い丘を案内された。

潮風を抱きしめるかのように伸びゆく岬。入り行く舞鶴東港。

東舞鶴駅に降り立ってから、どれくらいの時間が経っただろう。直線距離にして1kmちょっとの道程が、まるで悠久の時を経たかのように長く感じられたのは、風のいたずらかな。(笑)何はともあれ、やっと辿り着いた。

それにしても、さっきまで鉛色の雲を眺めていたからだろうか、はたまた博物館で黒煙に染まった時代の写真を見ていたからだろうか。今目の前に広がる海の景は、波音さえ鮮やかな青に感じる。それだけ、この小さな旅路にも、それなりに色んなページがあったという事かもしれない。

なんてささやかな読後感を抱けば、それはむしろまだまだ知らない事が沢山あるという事の裏返しのように思えたりもする。

髪を揺らした潮風は、儚さにも強さにも似ている気がした。その筆跡を生熟れな絵皿に写して、僕はまた西へと旅を続ける。

◆ 画像クレジット
1・4〜13枚目 – 筆者撮影
2・3枚目 – Pixabay

宮沢信太朗

1992年1月7日生まれ。シンガーソングライターを一応の本業とする傍ら、舞台演出や広告デザイン等も手がける。ブログが好評であった事から、2017年より一人旅のコラム等を中心にエッセイを書く事も始めた。2011年に音楽レーベルを設立。2012年度の日本作詩大賞新人賞入選。2015年3月に日本大学理工学部を卒業。同年4月より同大学で研究協力。

ウェブサイト: https://www.7s-me.jp

Twitter: @Shintaro_Mysw