『幸福の国』の犬たち

  by ガニング 亜紀  Tags :  

数ヶ月前のこと。何か調べ物をしていて偶然Public Radio Internationalという非営利団体のサイトの記事に行き当たった。世界中から情報を集めて発信しジャーナリズムを通じて世界にポジティブなインパクトをいう団体だ。行き当たったのはブータン王国が全国的に実施している野良犬の避妊去勢手術についての記事だった。

野良犬と言っても、日本や欧米の感覚の”野良犬”とブータンの街中あちこちで見かけられる犬たちはかなり違うもののようだ。国民のほとんどが敬虔な仏教徒であるブータンの人々にとって「命あるものは皆心をかけられなくてはならない」という仏教の教えは深く浸透している。だからブータンの人々は通りをうろつく犬たちにも心を配り世話をする。ただし、犬を自分の敷地に入れて所有するのではなく、あくまでも同じ地域の中に住むコミュニティの一員として捉えている。

しかし2000年代中頃には、街中に住む犬たちの数は人々の手に余る数にまで増えてしまった。犬たちの吠え声は観光客の眠りを妨げ、苦情も多く寄せられるようになった。観光事業はブータン王国にとって重要な産業であるから、これは由々しき問題だ。当時はさらに2008年の新国王戴冠式を控えて、それまでに路上の犬たちをなんとかしなくてはブータン政府は頭を抱えていた。しかしこの国の政府に犬たちを殺処分しようという選択肢はなかった。政府は大規模な保護施設を作り、そこで犬たちを飼育したが、環境に馴染めなかった犬たちの多くが命を落としてしまった。さらに悪いことに、街の中で完全に生活のサイクルの一部として機能していた犬たちがいなくなったことでネズミの数が爆発的に増えてしまった。

頭を抱えたブータン政府はかねてから相談していたHumane Society International(HSI 国際動物保護協会)のアドバイスを受け、前代未聞の一大国家プロジェクトを実行に移した。全国で約10万頭に登ろうかという犬たちに避妊去勢手術とワクチン接種を施す計画だ。犬を傷つけないよう捕獲ネットで捕まえ、傷口を最小限に留める方法で避妊去勢手術を行う。当初はブータン国内の獣医師だけでは手が足らずHISが派遣したインド人獣医師たちの手も借りていた。手術とワクチン接種が済んだ犬は耳に目印のカットを入れて路上に戻され、元のように生活を続ける。実際に犬の数が目に見えて減ってくるには5〜6年の時間がかかるが、不要な殺生をよしとしないブータン政府と国民はこの方法を受け入れ、2016年現在、路上の犬は自然な形で減少し秩序を保っているそうだ。

ブータン王国と言えば『国民総幸福量』という尺度を用いて国民の幸福感を測り、97%の国民が幸福を感じているということがよく知られている。とは言え、ブータン国民の幸福は日本人の幸福とは多分少し違うだろう。物質的に不便が多いであろうブータンの日常生活をそのまま日本や欧米諸国の価値観に当てはめることはできない。けれど物質的な部分から離れたところにも幸せがあるという精神には学ぶところも多いし、尊重すべき点でもあるだろう。

この犬のプロジェクトの底に流れる精神も同様だ。動物福祉とか動物保護というと、私たちはついヨーロッパやアメリカにばかり目を向けがちだ。しかし物事を見る角度を変えてみることも時に必要ではないか。犬という生き物がそこに居ることを認め、受け入れ、命を尊重するという仏教的な考え方には現代の日本人が改めて見直し、学ぶところがあると強く思うのだ。

(画像はPublic Radio Internationalサイト http://www.pri.org/stories/2016-06-15/bhutan-carried-out-nationwide-program-spay-and-neuter-its-stray-dogsより)

アメリカ、ロサンゼルス在住。 犬エッセイ、犬コラムを執筆。

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