アメリカン・サイコ(2000年/監督:メアリー・ハロン)
これが、今回レビューする映画だ。
パトリック・ベイトマン。この映画の主人公。
ウォール街の投資会社P&Pの副社長。それが彼の肩書き。
ロングアイランドの裕福な家に生まれ、ハーバード大学に入学。
ハーバード・ビジネス・スクールで大学院も修了し、流行りの家具で統一された都心の一等地にあるアパートメントに居を構える。
婚約者も愛人もいる。
何の不足もない、順風満帆な生活。彼の勤めている会社は父親のもので、実際、実務らしいことは作中では一切描写されない。
彼の周りにいるのは、彼と同じようなアッパーミドルのエリートたち。
そんな、ヤッピーたちとともに高級レストランで交わす会話は、軽薄な理想論。
社会正義を取り繕うための偽善にも似た会話。誰が誰であるかなんて、認識していない。
興味が有るのは、高級ブランドや行っている美容院、持っている名刺の格。
自分が優位であることを、各々が確認しようとしている。
そこに、自己はなく、ただ、他人との比較の中にその存在を埋没させる。
その証左に、彼らが着ているスーツ、かけているメガネ、行っている美容院。
どれをとっても、まったくそっくりで、だからこそ、彼らは彼ら自身を識別していない。
そこにあるのは記号。
どこのレストランが取れるか、そんなことで競いあう彼らにあるのは、記号消費としての消費のあり方。それだけだ。
冒頭に、ベイトマンについてのナレーションが入る。
彼はある抽象としての人物像だと。
つまり、彼は存在しておらず、誰でもない。しかし、物質主義に取り憑かれたすべての人物に当てはまる人物像であると。
ベイトマンは、同僚のポール・アレンに嫉妬をする。
高級レストラン「ドーシア」の予約。それを彼はいとも簡単にこなした。
自分は、電話口で受付に嘲笑われたというのに。
仲間内での名刺の見せ合いでも、彼に差をつけられてしまう。
紙の質、フォント。そんなことで。
ベイトマンは、ポールを自室に招く。
レインコートを着た彼は、ポールにお気に入りの曲、Hip To Be Square(Huey Lewis And The News)を紹介する。
この選曲にも彼の性格が出ているのかもしれない。
昔は、適当に生きていた彼も今ではすっかり、真面目になってしまった。
そんな歌詞が、この社会にうまく適合しようとする彼の、その行動に対する違和感のようなものと合致したのかもしれない。
事実、アッパーミドルである彼だが、高級コンポで流す曲は、Huey Lewis And The Newsだ。
何の変哲もない。何のクラス感もない。本来であれば、クラシックあたりを選択しても良い場面かもしれないのに。
そんな彼の曲紹介をさして気にも留めないポール。当たり前だ。他人には、関心がないのだから。
そんな、ポールの後ろからベイトマンは斧を振り下ろす。
この世界に適合しようとするが、その窮屈さに、暴力性を抑えきれなくなる瞬間だ。
一度、牙を向いた暴力性は、もう二度と元の場所には戻らない。
物質主義に偏執する彼の行動は、レストランに予約を入れる時でさえ、愛人と約束を取り付ける時でさえ、アダルトビデオをつけているような彼の暮らしぶりから伺える。
もう、彼には、すべてが、記号・数値、そんな定量化、比較できるものにしか思えないのだ。
何の感慨もない。彼が、ホームレスにかけた言葉のように、彼はそれを軽蔑しているのかもしれない。
彼は次々に殺人を繰り返す。
救うべきだと言っていたホームレスも。コールガールも。犬さえも。
コールガールを呼び寄せた時でさえ、彼はベッドの上で自己の優越感を満たすことにのみ注力していた。
そこに、人間の姿はない。他者の姿はない。ただ、記号としてのヒトがいるだけなのだ。
ブランド物を自慢するのとなんら変わらない行動。彼はただ、自分の価値を確認したいだけなのだ。
そんな彼も、秘書、ジーンの前では、平静を取り戻す。部屋に呼んだ時も、自分を抑えようとする。
そんな一面もあるのだが。
自分の中の暴力性は留まるところを知らずに。
彼は、最後に、弁護士に相談する。
人を殺した。と。
少なくとも20人は殺した。と。
しかし、真実は闇の中。
殺人は、彼の、この飽き飽きする社会を生きるための妄想だったのか。
現実だったのか。
現実に起きていることを、殺された人を、殺した人を、誰も関知しない記号化された社会が生んだ完全犯罪なのか。
弁護士は彼を弁護したい。不動産屋は、部屋にケチをつけられたくない。
彼だって、檻の中に入りたくない。
I want to fit in.という印象的なセリフが表す、この映画の世界観の中では、誰もが自分を持っていない。
自己を持っていない。ただ、周りと同じように、周りに負けないように。優越感を得ることがすべて。
日記帳の中の彼の落書きは、何を表していたのだろうか。
ベイトマンの暴力性の中には、物質的に充実していても、どこか満たされない心の空虚さがにじみ出ている気がした。