プロ野球のダルビッシュ投手がメジャー移籍に関しての会見を行った訳ですが、その内容がシーズン中のピッチング同等の何者をも寄せ付けないキレで、見る者を圧倒していたと思うのです。というか、私は圧倒されてしまいました。
(中略)
「僕は凄く勝負がしたかった。その上で相手が打ってやるという気持ちできて初めて勝負が成り立つ。それがなくなってきて、僕の中でモチベーションを保つのが難しかった」(スポニチの記事から抜粋)
同じ事をもの凄く遠回しに言った人は沢山いましたし、松井選手のようにノーコメントを貫く人もいる中、ここまで直接的な表現をした例は、過去にはありません。
これを平たく書くと、「和」の精神に付き合ってるとモチベーションが下がる、ということになる訳です。
もの凄く意地悪な書き方を承知で書きますが、日本の社会はずっと「和」の精神を重んじることで、ある意味、お互いの嫉妬心を刺激しない知恵で構成員全員の納得を引き出し、維持されてきた社会だと言えます。そんな習慣の中、60年代からの高度成長という特殊事情(割と寝てても儲かった)が起こり、そこで能力のある人がそうではない人には次第に疎ましく感じられる、要するに嫉妬心ですが、そういう状況の中、そこで嫉妬心にとって都合のいいように「和」の精神が利用されてしまった部分があった訳です。能力のある人達を潰してしまっても、企業も社会もやっていけたのが高度成長の時代だったので、それが通用した訳ですが、その名残がずっと今でも社会に残ったままではあるのです(能力のある人を潰してしまう習慣のまま、相変わらずやっていける程度に、日本の社会はまだまだ豊かなのですよね)。
そしてこの国は、ほぼこの嫉妬心の都合のいいように利用された「和」の精神を利用することで大事な問題が先送りにされてしまう訳ですが、結局はその嫉妬心をやっつける以外、ある部分、社会は先には進めなくなっていたりもします。ただ、そこで本当に嫉妬心をやっつけようとすれば相手も嫉妬心に任せてなりふり構わず応戦してくるので、最後は暗殺あり、社会的抹殺あり、の目も当てられない状況が待っているだけですから、今の若い人が始めから戦わない選択をしていたりするのも、実は仕方のない話ではあったりしているのかもしれません。
ダルビッシュ程飛び抜けた人でも、戦わず、日本を出て行く選択をする訳ですから、普通の人は況んや(いわんや)をや。
最近、大人が「今の若い人には元気がない」という話を良くしています。そして「若い人に怒りがないから社会が変わらない」という(身勝手な)疑問を若い人に向ける傾向があるのですが、これに対する若い人の答えは、ほぼ「怒る対象がない」ということで現状、落ち着いているようです。でも若い人の怒る対象は、実は“「和」の精神を隠れ蓑にした嫉妬心”にあることを、ダルビッシュ投手は置き土産として示してくれたような気もします。日本の社会にいると「和」の精神は美徳とされているだけに、それを隠れ蓑にされると、若い人の方からは言うに言えなかった、ということだったのではなかったでしょうか。同世代の若い人の空気を良く理解する人が自分の行動を理解して貰う為にああいうコメントを出す、ということは、どうもそういうこと(共感を得られる手応えがある)のような気がするのです。
もちろん、若い人が自分の嫉妬心を隠す為に「和」の精神を利用する場合も沢山ある訳ですけど(だから話がややこしくなる)、色々考えれば、大人が「若い人が頑張れ」とか言ってる前に、まず大人が己の凡庸な部分を受け入れ、その嫉妬心を引っ込める方が順番としたら先(子供と大人とどっちが先に折れるか、という話なので)、というようなことも、これから日本の様々な問題の解決策として、考えていって良いのではないでしょうか。
確かに、難しい話には違いありませんが。