説明できることとできないこと

  by あらい  Tags :  

ユーザーがメディア側から一方的に送られてくる情報しか得られる情報がなかった10年前とは違い、今の音楽マーケットでは「続きはwebで」を合い言葉に、ユーザーどうしがSNSで“答え合わせ”をしながら購買を決定する、という流れになってきています。これは、売る側としても、自分達に都合の悪い情報もSNSでやり取りされることを前提とすることになりますので、売る側には中々厳しい時代になったと思います。

そこで売る側が自分達にとってのマイナス要素のやりとりばかりを気にして、お客さん達どうしの“答え合わせ”の顔色を伺い過ぎるようになってしまうと、その一方に潜むSNSの落とし穴にハマってしまう可能性が同時にあるので、それはそれでもっと良くないことが起きてしますかもしれない、と思うことがあるような気がします。

SNSには色々な役割がありますが、その中にお互いの“経験を説明し合う”という面があります。それを“答え合わせ”というのはその通りなのですけど、文章で説明されたことを解り易いと感じるには、その文章を読んだ人が過去に同類の体験を経験しているかしてないかが全てになってしまうという所に、SNSの問題が潜んでいるように思います。それはつまり、SNSという場で行われる“説明”が人々にとっての最大公約数的な経験を前提にしてしまうようになってしまう、ということなのかもしれません。とりわけ日本のSNSのような周りの空気を読む事がコミュ力として必要とされる環境下での“答え合わせ”では、“それ以上”の未知の体験を説明されても空気を読んであまり話題にしないということになりやすい、ということなのです。説明しても解って貰えない、と思えば、誰も説明をしなくなるのが人情なのですから。

少し前に、2chのまとめスレッドに『寿司職人って魚切ってご飯に乗せるだけで職人ズラっておかしくね?』(タイトルこんな感じ)的なものが出ていました。読んでみると「ネタが一緒なら、その道30年とかの職人が握ろうが 俺が握ろうが味は変わらないだろ」「修行に10年とか流石にねーよな 魚さばくのと握るの足しても2年くらいだろ」のようなコメントが半数以上を占めるような状況でした。回っているお寿司ではなく、本当に美味しい寿司の美味しさを説明しようとすると、どう説明してみた所で最後は漫画のファンタジー調になるしかないのですが、経験のない人にはそれが本当にファンタジーとしてしか伝わっていない現実が、2chには存在していたのでした。この状態がエスカレートしてしまえば、お寿司の文化はやがて絶滅してしまい、オニギリ文化に吸収されてしまうでしょう。

人間のやることの中で、説明の及ぶ範囲の事柄は限られた部分でしかないということは、意外と忘れられやすいことなのかもしれません。例えば大リーグのイチロー選手が“説明”をしてくれて、それを理解したら誰でも大リーグでヒットが打てるようになるのか、ということを考えてみると良いと思いますが、人間のやることには必ず説明のできない感覚がありますし、むしろ“何かができる人”は、その説明のできない感覚こそを大事に物事をこなしていきます。彼らは例外なく、説明することを抜きに、自らのパフォーマンスだけで人々を納得させることができます。その説明のできない感覚を数多くモノにしている人が本物、というセンスを社会としてなくしてしまってはいけないように思うのです。

音楽に話しを戻せば、音楽はそれが目に見えないないものであることも手伝って、何が粗悪で何がちゃんとしたものなのかの線引きを、誰にでも解る形で説明することができない文化だったりします。『イマージュ』は立派で『神聖かまってちゃん』は粗悪、なんて基準を社会のコンセンサスとして強要されたら、説明できない感覚をモノにしている人程、音楽からは離れていきます。

同時にいくら説明ができないからと言って、粗悪な音楽はこの世にはないんだ、何でもアリだろ、とは言えないことが音楽文化の根本にあることは、音楽に深く関わっている人程、そこに異論を挟みません。上質のビールと上質の納豆をかき混ぜて「上質だろ」、と言ってお客さんの前に出してもそれは粗悪な料理として認識される、という類いの感覚は、音楽にもあるのです。

説明のできない感覚をモノにしている人どうしで“粗悪”の線引きを、ある程度の公正さをもって共有していく(ユーザーも含めて)ことが、音楽も含めた全ての文化で行われていることなのではないでしょうか。それには勿論、制度の硬直化を引き起こすようなデメリット面もある訳ですが、説明できる感覚のみで物事を完結させることで説明できない感覚をモノにできていない人の発言権を肥大化させてしまうと、お寿司の文化がオニギリの文化に吸収合併されてしまうような話しが、その文化の中で実際に起きてしまうのです。その危険性が、特に日本の空気を読むSNSにはあると思うのです。そんな極端なことは絶対に起こらない、ともはや断言する事が不可能になってしまった時代のSNSと、音楽文化もいよいよ共存していかなければならなくなったのだと思うのです。

人間の持つ説明できない感覚が、もっと社会の中で見直されていく事はもちろんですけど、作り手がSNSの中で話題にして貰えることをキチンと考えてやりつつも、説明のできない感覚をモノにしている人どうしの中で共有できている公正さを、音楽を聞きにきてくれている人達に経験して貰う積み重ねを諦めたらいけないのだろうな、と個人的には思っています。

もっとも、今のようなビジネスとしての合理化の道を突き詰めていくばかりの社会では、酢飯に生魚を乗せただけのオニギリを「コレの何が悪いの?美味しいじゃん」で済ませてしまうセンスを正義とされてしまうだけに、そこに抵抗していくことは難儀なことだな、とも思っていますけど。

東京の音楽業界の隅っこで仕事をしてきました(インディーズアーティストのもろもろ、ゲーム、ラジオの音楽制作、専門学校講師等)。2014年から某楽器メーカー勤務。

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