書く事そのものが大学である

  by genn33  Tags :  

 大学の話をしたいのだが、私自身は、実は大学は行っていない。しかし、40歳を過ぎた今も、相変わらず憧れの対象である。

と、言ってもいつか性懲りもなく大学に入りたい、という訳ではない。実は私は、10分以上集中して授業を聞く能力がない(笑)ので、学校で勉強する、という行為を早々に諦めたのだ(高校までは何とか卒業したのだが、今や その記憶すら曖昧で、確信が持てない)。

 私が今も憧れるのは、主にその建造物や、設備である。実のところ大学に限らないが、明治・大正期に建てられた古い建築が好きで、札幌にいた頃は北海道大学、東京にいた頃は一橋、立教、明治、あと本郷など味わい深い構内をよく散策したものである。(明治大の記念館はのち、取り壊された 何たる愚行!)

 アイルランドではダブリンのトリニティカレッジ(大トンネルのような旧図書館で有名)、スコットランドではグラスゴー大学を観た。
 大聖堂を観る時もキリスト教徒になるつもりはないがその信仰心に共感するのと同じで、どの大学にも入るつもりはないが、人それぞれのやり方でも、学問を続けたい気持ちに変わりはないのだ。そういう意味では、聖堂も大学建築も、等しく志を持つ人間の心を潤すために、そこに立っているのだと思う。

 東京にいた頃は、どこの大学が一流だとか、どこが三流だとかいう話をよく聞いたが、あまり意味のない話だと思っていた。私自身は、東洋大学という私立の学校が好きで、なぜか出会う友人もここの出身が多かった(音楽や演劇関係で、とにかくユニークな人材が多い)。もともと哲学の専門学校である、という話に魅かれたのだが、後に愛読する坂口安吾や、遠野の佐々木喜善もここに通っており、しかも創立者の「妖怪博士」こと井上円了が妖怪学の全国巡業講義で山形県に来た時、私の実家の本家に宿泊していた事が判明するなど、何やらやたらと縁を感じる大学なのだった(でも入らない 笑)。

 東洋大学は創立当初、政治や法律の専門学校である早稲田や明治と同様、哲学の専門として同列上に屹立した存在であったが、社会問題となった「哲学館事件」(講義内容に天皇不敬の疑いをかけられた)を契機に大学編成が滞った。現在は哲学関係は一流だが大学全体としては中堅とか二流と言われ、おそらく早稲田などとは同列に扱われていない。つまり、両学の出身者が出会った時、両者の間に余計な先入観や、複雑な感情が生まれ、人間関係に円滑さを欠く可能性があるという事だ。各々の見えにくい個性や能力の違いよりも先に、どちらが上か下かという判断になる訳で、こういう事は実にくだらなくて、もったいない事だと思わざるを得ない。

 今、私は東京を離れて仙台に住んでいるのだが、ここ10年程で人間関係も広がって、これを相手側の出身大学で見ると、地元の東北大学(国立)、東北学院大学(私立)を始め北は北海道大学から南は東京大学や明治大学まで実に様々な交流が生まれている。なぜ大学を出ていない人間がそんな人々と付き合えるのか、といえば、要するに音楽の同好会とか、自分たちで企画した喫茶店での討論会とかを通して、である。

 こうした場では、もちろん私は「無知」である事を前提として、自虐的にいうと「バカなりの」無茶な質問や無茶な提案を繰り出す。
これが時に「アタマのいい」面々を刺激して、議論が面白い方向に行く事が往々にしてあるのだ。実のところ、どんなエリートであっても、ある方面では「無知」であり、必ず弱点がある「バカ」には違いないので(ごめんなさい)、その基本をおさえておけば、変なコンプレックスに支配される事はない。それぞれ持つものが違う人間同士として、キャラクターをぶつけ合う事が肝要なのである。

 仙台に来て、大学についてひとつ興味深い点に気づかされた。
 例えば、仙台でよく言われるという、女子大生の決まり文句のようなものがある。
「彼氏にするなら東北学院(学生、出身者)、夫にするなら東北大。」
 もちろん、必ずそういう形になる、という話ではないが、両大学の性格を考える時、非常に納得できてしまう話だと思った。
 東北学院は東京でいうと中堅どころの偏差値らしいが、学生の水準としては東京でいうところの、一流も三流も一手に引き受けており、偏差値だけでは判断できない印象である。
 面白いのは、東北大、つまり所謂一流大学だが、これがむしろ仙台では「揶揄」される存在である点だ。「彼氏ではなく夫」にふさわしいという事は、「一緒にいて楽しい男」というよりは「いい生活を保証してくれる存在」である事を意味する。少々、残酷な感じだが、男女関係というのは痴情と計算が絡み合ってしまうものですよね・・・?

 実際、個人的に交流のある両学出身者の職業を見ると、東北大学が「博物館」「発電所」「研究所」「出版社」などで、東北学院大学が「喫茶店のマスター」「イラストレーター」「NPO活動」「パチプロ(爆)」など。見事に、性格が分かれているのがわかる。
 余談ながら、学院大の人は財産の差し押さえとかを受けた経験があるが(笑)、東北大の人はまずそんな失態は考えられないようだ。

 学院大の場合、能力があり、アタマがいいのは確かなのに、とにかくエリート然としたところがない。代わりに、やる事のバイタリティがすごいのである。東北大の場合は、能力は素晴らしいのだが、とにかくお堅い。性格は明るくて気さくなのだが、職業、手際の手堅さには例外はまずないのだ。

 先の大震災の時、真っ先にアタマと身体を使って活動したのは、言うまでもなく学院大はじめとする私立大学生や出身者たちであった。もちろん、この時は両学とも、例外はいたかも知れないが、このような事もあって、地元ではどちらかというと私立大学生の方が身近で愛着を持たれており、能力はあっても過剰に崇敬されていない。

 東京では徹底的にランクづけされ、一流は有能、三流は無能のような見方をされる大学出身者たちだが、仙台では単純に、そういう上下の概念で完結される事がない。
 これは各大学に入ったために身についた性質なのか、それとも大学に入る前から既に決定していた性格なのかはわからないが、彼らは全く違うタイプの人間である、というその事実だけなのである。それぞれに違った方面で有能なのであり、それぞれがふさわしい働き方を貫くのが正しい、という事だ。

 はて、それでは私は、どちらのタイプになり得たのだろう?
 いや、私は、無能だ。どちらにも、なり得なかっただろう。というより、いずれの大学のステロタイプにも組み込まれるのは、ゴメンである。
 一流も、三流も、どちらの肩書きも同じ重すぎるスティグマ(負の刻印)に他ならないのだ。常に裸一貫、常に無知、ニュートラルを基本として誇りを持って生きていくだけだと思う。

 ところで、肝腎の、「授業を10分以上聞いていられない」私の勉強法とは、どういうものなのか?

 それは、こうして、書く事だ。

 昔、小説家を目指していた友人が、言った。
「俺は知識がないので、もっと勉強してから小説を書く」
と。当時はそうかあ、などと返していたが、今ならバカな事を抜かすな、と怒鳴ってやれる。

 俺たちは、とにかく書きながら、勉強するしかないのだ。最初は何もアタマになくても、書いているうちに知りたい事が山のようにあふれ出てくる。とことん、追究せずにはおれなくなってくる。これこそ、学ぶための原動力だ。

 自分の心の中に、大学はあるのだ。

山形県鶴岡市生。札幌、東京を経て全国旅生活の果て仙台在住。『電子新聞 東北復興』に2012年より毎月エッセイ、翌年より小説など寄稿中。

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