あの娘と、遅刻と、勉強と
まずタイトルに惹かれる。
何よりも “岡村靖幸らしさ” がタイトルに押し出されている。キュンとするタイトルではないか!
本書は、TV Bros.で岡村ちゃんといとうせいこう氏の対談を行ったところ好評を博し、これがきっかけで岡村ちゃんがカテゴリーを越えたさまざまな人たちと対談する連載が開始された、その書籍化だ。
といいつつも、筆者はリアルタイムで読んでいなかったし、不覚にもTV Bros.で岡村ちゃんの連載があった事実すらまったく知らずに過ごしてきたのだ。
兎にもかくにも『あの娘と、遅刻と、勉強と』に出会えたこと、各界で活躍する人たちとのめったにない対談、内容の濃い240ページに拍手を捧げたい、計算違いのこの本に。
(岡村ちゃんの『だいすき』風に… )
さて、今ふりかえればこの前書き部分を書いていた時、ツイッターのフォロワーさんと会話をしていたのだ。
なんと彼女は岡村ちゃんのコンサートに行き、目の前(前から2列目の席だそう!)で岡村ちゃんに酔いしれ、彼の飛び散る汗をシャワーのように浴びてくると、彼女は興奮気味にツィートしていたのだった。
うらやましかった… 筆者も無理してでもチケットを取っておくべきだったとその頃後悔しても後の祭り…(泣)
すべての対談を紹介したいところだが総勢17人もいるのでそれはムリな話で、そもそも全部紹介してしまえば営業妨害になってしまう。
そこで、今回はテーマを絞り込んでみることにした。
何かと考えさせられる“SNS”について何人かが対談で、それとの「付き合い方」などをさりげなくではあるが語ってくれている。
なぜかツイッターをやらない岡村ちゃんがツイッターをよく理解している
いとうせいこうさんとの対談にて
岡村 −
僕、いとうさんのツイッターを見ているんですけど、心の吐露みたいなことはあまりやらないですよね。
連投もあまりしない。
(『あの娘と、遅刻と、勉強と』9ページ より)
いとう −
連投しちゃうと、人のTLにずっと僕だけがいるっていうのは、やっぱり嫌がられるんじゃないか、とか。あと、本当に長く書くつもりなら、(連投で)細かく分析して書くべきじゃなく、ブログなんかでしっかり書くべきだろうと。そういうメディアの仕分けみたいなものは意識しています。
(『あの娘と、遅刻と、勉強と』10ページ より)
ツィッターで、ついつい自分の感情の吐露をしてしまう…ありがちなことではある。
なぜだか、自分のもやもやをツイートで吐露することによってだれかが聞いてくれている気持ちになり、それが高じてだんだんエスカレートしていく。
140文字に満たない短いセンテンスで連投してしまうことは、長い間ツイッター・ユーザーなら経験しているのではないのだろうか。
後で冷静になった時、失敗してしまったことに気付き、それ以降やらないように意識的につとめれば済むことだが、それができなければリムーブにも繋がってくる。
ツイッターを使う人は、自分が欲しい情報やほどよく心地よいTLを求めている。
そこに他者の愚痴などの内面の吐露を延々流されたら、困惑してしまうだろう。
岡村ちゃんに「俺のグルになってくれ」と言せてしまった人
SNSなどに精通し自らを“ジャーナリストもしくはメディア・アクティビスト”という肩書きを持つ(ツイッターの自己紹介欄にて)津田大介氏。
ここでもツイッターをやらないという岡村ちゃんが、氏におもしろい質問を畳み掛ける。
イベントなどをやっていて盛り上がっている時に、「ツイッターはそのままの熱気を伝えきれていない感があるのでは?」という岡村ちゃんに対し
津田 −
僕、ミュージシャンがうらやましかったんですよ。作品を作る点では物書きもミュージシャンも一緒ですけど、ミュージシャンにはライブがあって、その場で熱狂を感じることができるじゃないですか。僕も本を出してトークイベントをやることはありますけど、それでお客さんがキャー!って盛り上がることはないですから(笑)。岡村 -
そうですよね(笑)。津田 -
でも、ツイッターで、その熱狂を疑似的に体験できているところがあるんですよ。本を出したらその感想が次々にツイートされて、その中でやり取りもあって…というのは、「物書きが初めて味わうミュージシャンのライブ感だな」と思って。
(『あの娘と、遅刻と、勉強と』134、135ページ より)
筆者自身は、そういった熱狂の渦中としての体験はないが、有名人と一般人とのツィートのオーディエンスとして参加した経験はある。一人(津田氏のようなクリエイター)に対して、何万人が絡むのだからオーディエンス側がツィートしても返ってくる確立はかなり低い。
その疑似体験は、あくまでも中心にいる側だけが味わえる感覚であるだろう。
岡村 -
「ツイッター上の世論」と「世間の世論」にギャップがあるなと感じることはないですか?
津田 -
ありますね。ツイッターってすごくいいツールだけど、危険なところもあると思ってて。
…中略…
「最近この人の連載がテンション落ちてきたから替えよう」というのがフォローを外すということで。
(『あの娘と、遅刻と、勉強と』135ページ より)
さすがだ。ツイッターユーザーが個々の雑誌編集者であると表現する津田氏、抜群のセンスの持ち主だ。
筆者自身、これまでにツイッターの本質を考えることが多々あった。
まさに津田氏がいうように、TLは自分がさまざまな選択肢から選んだフォロワーのツィートが流れている、“ デザイン by 私 ”のツールだ。
TLは本人の取捨選択による独自設計、たとえリフォローされてもその時は、“お互いさまだ”から傲慢でもなんでもない。
「TLを汚してごめんなさい」というツイートを何度か聞いた憶えがある。あまりにも内々の愚痴や汚い言葉の応酬以外は、筆者は基本OKとしている。
さらに、津田氏が提案する「ネット断ち」も有用だ。
一日スマホをジッと見つめて、下ばかり見ているよりもっと「現実の自分が存在する場所」に目をむけなければならない時期だと筆者も思う。
ツイッターやフェイスブックで、フォロワーが多いとその分チェックや書き込みに要する時間がかかってしまう。
SNSを“気持ちいいペース”でやるための自分なりのルールを作っておくことで、下界とネットとのバランスを保つことが必要だ。
例えばツイッターで不快な思いをしても、時間を置くことで気持ちが切り替わり、落ち着いて向かうことができるだろう。
ツイッターはディベート向きなのか?
水道橋博士との対談で、博士が
苫米地英人さんという、日本で一番ディベートが強い人がいて天才で突出して頭がいいが、それがかえって「すごいばかにみえる」という。
その「ばかさ加減”を“笑い”に変える場を作りたい」というところが奇抜であり、博士らしくておもしろい。
ここで話題に上ったディベートという言葉。
筆者はかねてから、ツイッターと”ディベート”という単語で考えていたことがある。
「ツイッターは、ディベートに特化しているのだろうか」ということ。
ディベート的な論議に参加したことはないが、実際にそれらしいやりとりをしているユーザーはいる。
興味本位で何度か覗かせてもらったことがある。
どれもが最後には互いを罵倒する場に変わって行き、それにより次第に気分が最悪になり面倒になって黙ってしまい尻切れ、という一定の構図が見られる。
次第に過熱し、もはやディベートとはいえない状況に化して、しまいには個人の感情のぶつかり合いに発展し、個人非難に堕ちてしまう。
相手の話を聞かず自分の主義や主張を強固に発言するばかりの状況下で、ディベートが成り立つとは思えない。
そもそも、ディベートには「どちらが論破したと審判を下す役割」が必要ではないか。
ツイッターの愉しみかた
ツイッターは「ユーザーの取捨選択によってタイムラインを独自に創るツール」だ。
気がつけばフォロー数が自分の許容範囲を越えていて、ほとんどのツイートを追いきれなくなって、肝心の拾いたい情報を逃してしまったりすることがある。
そんな時は、フォロワーの見直しを行うといいだろう。
筆者は定期的にフォロワーの見直しを行い、何ヶ月もツイートしていないフォロワーや「最近このユーザーは自分の創りたいTLからちょっと外れているな」と思ったら、一瞬迷いはするがフォローを外してしまう。それはおそらく他のユーザーもやっていることだろう。
議論でイライラしたり「コメ返しなくちゃ」などという義務感に縛られるようなら、SNSの本質に一度戻ってみるべきだ。
最後に
ドキュメンタリー以外には、あまりテレビを見なくなったという岡村ちゃんがチェックしているテレビ番組の趣向がわかったのも、筆者個人としても大きな収穫だった。
(『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』(2009年4月 – 2013年5月2日)と『5時に夢中!』( 2006年10月10日 – 2007年3月30日)とダウンタウン関連は見ているそう。)
対談前に時間をかけて下調べをする真面目な岡村ちゃんは「あの頃の岡村ちゃん」のキャラとは別人のようだ。
そういう一生懸命さや寂しさと現実の狭間で戦っている彼の姿を想像しながら、“共感に限りなく近い楽しさ”を覚えた。
写真:
1枚目:筆者撮影
2枚目:https://www.youtube.com/watch?v=sTC65iC3oqI より
3枚目:http://www.ashinari.com/